著者あとがき



  「旧約聖書は日本人にとって究極の異文化だ」と言った友人がいます。この本はキリスト教と無縁な友人や知人に少しでも興味を持ってほしいと思って書きました。聖書というと身構えてしまう方もいるでしょうし、特に旧約聖書はとっかかりがなくて親近感がもてない書物です。この本はフィクションの枠組みを用い、編集者の立場から聖書を概観し、ミステリーの入ったビルドゥングスロマーンに仕上げました。

 書き上がってすぐに読んでいただいた方から、「なにゆえこのような本を書かれたのか、あとがきを書いてほしかった」という言葉をいただきましたが、これはその時はどうにも書けませんでした。何を書いてもちょっとちがうという感じになってしまったからです。これまでちゃんと読んだことのなかった旧約聖書を集中的に読んでみたら、お話が浮かんだのは事実、二回目に読み込んだら様々なことが一挙に繋がってきたのも事実、口語訳と新共同訳を比べてみたら驚くような違いに気づき、そこから或る重大な推論に至ったのも事実です。その間ずっと聖書の面白さに魅了され、頭に浮かぶことを文字にするのは苦しくも楽しい経験でした。
 書きながら、子供時代からのことを思い返すこともでき感謝に満ちた時間でしたが、こんな本は子供には面白くないだろうという思い込みを払拭する出来事もあり、そのうち「ああ、私は自分が子供の頃こんな本があれば読みたかったと思う本をかいたのだ」ということがはっきりわかりました。旧約聖書は子供にとってハードルが高すぎて歯が立たなかったにもかかわらず、かといって子供向きに書かれた旧約聖書物語のようなものでは物足りなかったのです。
 そういう意味では、旧約聖書の異質さは大人も子供もあまり差がありません。大人であっても日本人がサラサラ読んで「なるほどそうか」とわかるようなものでないことは確かです。今回ひょんなことから、私は旧約聖書を日本人にわかるように現代誤訳したかったのだなと、自分の動機が理解できました。日本は明治以来あらゆる事柄や思想を猛然と翻訳してきた独特な国です。日本にはない概念にぶち当たっては新しい言葉を創造してまで貪欲に日本語に移し換えてきたのです。自然科学だけでなく、世界中のあらゆる人文科学、思想・宗教・哲学をも母国語で多少なりとも知ることができるという途方もないアドヴァンテージを、私もずっと享受してきました。特にまだ母国語以外それらにアクセスする手段を持たない子供にとってそれは死活的に重要なことです。そうして幼い者にも裾野が広がれば、興味を持って探求する者が現れ、研究者の層も厚くなって、中にはとんでもない達成をする者が出てきます。そういうことを私は深く切望しています。もちろん今の時点でこの話を笑い飛ばし、旧約聖書の成立に関わる真実を教えていただけるのならすぐにも聴きたいのですが、一方で未来において、「子供の頃、なんかヘンテコな旧約聖書の物語本を読んだけど、あれ間違ってるよね。本当は旧約聖書はこんなふうにして書かれたんだよ」と教えてくれる読者がいたら最高です。その意味で、この本は否定されるために書いたのだと言えます。これからの楽しみが増えました。
 先日久しぶりに読み返してみて、ほんとに自分が書いたのかな」という変な感じがしました。そしてそう思うのも半分は無理もないことなのです。話の中に自分が疑問に思ってきたことを書きこんだり、あちこち読んで点と点がつながったところは意識して書きましたが、話の骨格自体は頭の中に既にきれいに出来上がった状態で湧き出てくるものをただ書き写したにすぎないからです。その点では自分が書いたものとは到底言えず、これは宗教改革500年にあたる2017年という節目の年に与えられた大きな恵みとしか言いようのないものでした。



著者:日本基督教団福島教会員、日本基督教団中渋谷教会客員








 




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