第1章



「主がベニヤミン族の嗣業から祭司アロンの子孫に与えられたのは、どこであったかな、アビエル?」

「はい、ギベオンとその放牧地、ゲバとその放牧地、アルモンとその放牧地、えーっと、あとは…」

「メラリ?」

「ヘブロンとその放牧地?」

「ヘブロンはユダの地であろうが」

「そうでした、アヒメレク様」

「ヘブロンは逃れの町でもありますね、おじいさま」

老アヒメレクはアビエルに目で合図を送りながら、二人に言った。

「あと一つはアナトテとその放牧地じゃ。忘れるな。今日の授業はここまで」

アビエルとメラリは悪戯っぽい微笑みを浮かべて目を合わせた。アビエルが口を切った。

「質問がございます」

「言うてみい」

「おじいさまは今日預言者エリシャの話のところで、子供たちがクマに殺された話を端折りましたね。なぜですか?」

「残酷な話だからな。それにお前たちはもうその話は知っておろう」

メラリが答えた。

「僕知ってます。エリシャがエリコからベテルに上る時、『はげ頭よ、のぼれ』って囃し立てたのでエリシャの呪いがくだったのでしょ」

アビエルも笑いをかみ殺しながら言った。

「『はげ頭よ、のぼれ』とはずいぶんですね。天罰が下って当然です」

「お前たちも神罰を受けたいか。人をからかいおって。けしからん。お前たちは老人に対する敬意が足りない。『白髪の人の前では、起立しなければならない』という教えを知らんのか」

アビエルとメラリはもう駆け出していた。

「だって白髪じゃないもの。わー、アヒメレク様、お慈悲を。また明日」

「とっととどこへでも遊びに行け」

二人はきゃっきゃと声を上げて出て行った。

 

 静寂が戻った脇間を出て、アヒメレクは拝殿に歩いて行った。より正確には、かつてそういう場所であった空間と言うべきだが。

「大きくなったものだ。アビエルが明るく振る舞っておれるのは、メラリのおかげかもしれんな」

がらんとした神殿を見回しながら、アヒメレクはつぶやいた。神殿とはいってももはや廃墟だった。それでもあれから瓦礫を片付け清めて、少しずつきれいになってはいた。そこらじゅうに残っている焼け焦げはあの日のすさまじさを物語っていた。なんとか授業ができるようになっただけでも感謝せねばならない。あっという間の気がするが、あれから一年になるのだ。

 

 アビエルとメラリの放課後はいつも城壁が起点だった。自然とそこに足が向き、そこからの眺めを時折目で追いながら歩いた。授業が再開してからは、二人は毎日のように放課後町中をあちこち見て回った。瓦礫の片づけが進んできたとはいえ、昔の面影はもうない。思えばこの最終的結末を迎えるまでエルサレムはずっと緊張状態にあった。皆うすうす感じてはいたのだが、バビロニアに対するエジプトの一時的勝利がいたずらに民の希望を募らせ、その後明らかとなる情勢から目を背けさせていた。あれはゼデキヤ王の第九年十月のこと、反バビロニアの動きにネブカドネザルの反応は素早かった。カルデヤ人すなわちバビロンの軍勢は、またたく間にエルサレム、ラキシ、アゼカの三要塞を除くユダ王国全土を征服した。やがてアゼカ、ラキシも火によって焼かれ陥落した。エルサレムは一年半の包囲に耐えたが、城内の暮らしが飢餓と疫病で限界に達した頃、バビロン軍は城壁に穿った隙間から一気にエルサレムに攻め込んで来たのだ。そう、あの日…

 

 あの日、アビエルとメラリは城壁まで走った。兵士たちは城門を死守していたが、多くの大人たちがなすすべなく右往左往していた。アビエルとメラリはシロアムの池の手前まで来て、西側の城壁から覗くとバビロンの大軍がひしめいていた。すぐにキデロンの谷側へ移動し、城壁から見下ろしている大人たちをかき分けると、布さらしの野に至る大路もバビロン軍で埋め尽くされていた。そのまま馬の門の手前まで走り、もう一度見た。それで十分だった。いや、本当は見るまでもなかったのだ。ときの声を上げるバビロン軍のどよめきが辺りに鳴り響いていたから。エルサレムの陥落は時間の問題だった。こんなことがあるのだろうか。シオンの要害が…、ダビデの町が…。二人はそのまま城壁にそって神殿に向かって駆け出した。なんとしても神殿は守らねばならない。神殿の前の庭に着いた。その辺りには天を見上げて祈ったり、大声で何事かを叫んだりする人々がいた。外庭で祭壇の傍らにいる人たちを横目で見ながら、神殿の入り口まで来た。門柱の手前で声をかけられたが、その時上がったバビロン軍の雄叫びでその場の注意が逸れた。城壁の一角に穴が開いたのだ。メラリは人の声を背中で振り切って、そのまま拝殿の中へ入って行った。ゆっくり外陣に向かうメラリの後姿を茫然と見ながらアビエルは一瞬躊躇したが、メラリに続いた。外陣に入ってアビエルは初めて恐怖を感じた。悪夢が迫っていることだけが確実だった。どうしていいかわからずアビエルは足を止めたが、メラリは奥の内陣に向かって呼吸を整えながらゆっくり進んでいく。顔面は蒼白で、脚が震えているのが後ろからでもわかった。

「やめろ」

アビエルは叫んだ。メラリは振り返りもせずに大声で言った。

「来るな」

恐ろしい想像が当たった。メラリはそのまま本殿へと向かっていく。アビエルが叫んだ。

「やめろ、死にたいのか」

「お前は来るな」

と、メラリが答えた。騒々しい音がすぐそばまで迫ってきていた。もうすぐバビロン軍の掠奪隊が神殿に襲いかかってくる…。アビエルはメラリを追って駆け出した。

「石の板は二枚だ。一人じゃ持てんぞ」

二人は純金の燭台の前を通って、至聖所のところまで来た。大祭司のみが年に一度民の贖罪のために入れる場所だ。この中に「契約の箱」が置いてある。息がつまりそうだった。至聖所に足を踏み入れた。アビエルとメラリは互いの顔を見てまだ生きているのを確認した。それから視線を正面に戻すと、鈍く光る箱がそこにあった。この中に、モーセが神と結んだ契約の証の石の板が収められているのだ。箱の上には、大きな二体のケルビムが翼を広げている。

「かつてナコンの麦打ち場で何が起きたか習っただろう」

「ああ、つまずいた牛のせいで神の箱を押えたウザは死んだ」

「箱を落とすまいとしただけなのにな。僕たちはそんなじゃ済まない。これからやろうとしていることは」

その時、神殿にどやどやと兵士がなだれ込んできた。大声をあげながら騒ぎまくり、笑いながら破壊行為を行う音が聞こえた。物の焼ける匂いがした。火を放ったのか。おしまいだ。だがその前にやることがある…。アビエルとメラリは目と目を合わせると同時に、神の箱の贖いの座と呼ばれるふたに手を掛け、開けた…。

 

 アビエルはそこからの記憶が飛んでいた。気づいた時、そこは見慣れぬ場所だった。メラリが隣にいたのでほっとした。そしてアヒメレク翁が一緒だった。

「ここは?」

とアヒメレクに訊くと、静かにするよう合図された。声をひそめてアヒメレクが言った。

「声を出すな。ここは神殿の地下室じゃ。しばらく帰れんぞ、馬鹿者が」

上からはひっきりなしにドタンバタン、ガラガラと音がしていた。神殿の地下室なら知っている。何度か入ったことがあり、祭儀用の様々な聖具、多くは脇間に入りきらない器類や使わなくなった祭儀用具が置かれていたはずだ。しかし、ここはそこではない。上から聞こえる蛮行の騒乱は途切れることなく続いていたが、夜になってその音が止んだ。完全な闇と静寂が辺りを覆った。三人は通気口から時々新鮮な空気を吸った。その部屋にはなぜか水や食料の備蓄があり、空腹はしのげた。ハンナの作る料理が恋しかったが食べ物があるだけでもありがたかった。ハンナもマヘリも家で心配していることだろう。

 長い時間がたった気がした。やがてそこが地下二階だということがわかった。秘密の地下室は漆黒の闇の中にあった。通気口を覗くとそのずっと先に、わずかに外の薄明かりが見えた。神殿のどの辺なのだろう。メラリと話すうちアビエルの記憶が戻ってきた。契約の箱を開けて覗き込んだ瞬間、風が吹いたような感じがして、そこにアヒメレクがいた。老アヒメレクは二人を両側に抱きかかえるようにして地下室の入り口まで走り、そのまま階段を駆け降りた。どこにそんな力が潜んでいたのだと思うほどの腕力とスピードだった。アヒメレクは地下室の階段を降りると奥の石柱の後ろに手を回してぐいと押した。音もなく石柱が動きさらに階段が見えた。アヒメレクはアビエルとメラリを押し込み自分も入ると、石柱を戻し中から留め金を固定した。神殿の地下室の下にさらにこんな空間があったとは。このような非常事態に備えて用意された場所なのか?

 次の日も掠奪隊はやってきた。エルサレムが最初に攻略された時、王宮と神殿から財宝はおおかた持ち去られていたが、今またさらに神殿の聖器物がことごとく運び出されていた。純金の燭台や青銅の洗盤ほか金、銀、青銅の聖具はおろか、青銅の柱や柱頭の飾りをも切り刻んで持ち出す音が続いた。それはもういい。祭司が身を清めるための青銅の「海」も、その他の祭祀用具もすべて、あきらめなければなるまい。だが、契約の箱はどうなったのだろうと、上階から聞こえてくる音を聞きながらアビエルは思った。掠奪は断続的に三日間続き、その後静かになった。三人はずっと息をひそめていた。持ち去るものがなくなるとそれきりだった。地下室にも火が放たれたが、燃えるものがもうなかったので、下の階まで来なかったのは幸いだった。アヒメレクは慎重だった。熱が冷めるまで三日かかり、それから物音に注意しながら念のためさらに三日待った。非常時と言ってもそうそう緊張感はもたない。アビエルとメラリは地下室の探検をした。こんな時でも結構楽しかった。奥の部屋まで行くと、数えきれぬほど多くの棚があり、二人はそこで、これまで見たことのない夥しい数の巻物を目にした。パピルスや羊皮紙に書かれた巻物が戸棚の中に保管されており、壺の中に封印されたままのものもあった。他に入りきらないものが、机の上にも所狭しと置かれていた。「手を触れるでないぞ」とアヒメレク翁は言った。そうこうするうち三日たち、もういいだろうということで三人は上階に上った。

 想像していたとはいえ神殿の惨状を目の当たりにし、この世の終わりを見たと思った。神殿と王宮は見渡す限り灰燼に帰していた。はるばるレバノンから運んで壁に張られた香柏の板も、床に張った糸杉も、黄金に輝いていた至聖所もすべてただ焼け焦げとなっていた。帰る道々も大きな家はほとんど焼けており、見慣れた風景はなかった。ダビデの町はもうどこにもない。めちゃめちゃに荒らされた地のところどころに、レビ人の小さな家々が焼け残っていた。近づくと、離れたところからマヘリとハンナが飛び出してきた。メラリとアビエルが駆け寄って抱き合い皆で泣いた。マヘリは三人を捜して何往復したかわからぬほど町中を巡ったが、見つからぬまま今日になり、胸がつぶれる思いでいたのだ。ハンナは顔が変わるほど泣き腫らしていた。ずっと隠れていてようやく出て来られたことをメラリが話した。アヒメレクはその足ですぐどこかへ出かけたが、やがて戻ってきた。その晩は久々にハンナの手料理でやっと帰れた喜びがわいてきた。安堵感で深い眠りについた。

 

 アビエルは時々両親のことを考えた。しかし、そもそも両親の記憶がないのだから思い出すこととてなかった。アビエルが生まれた時に母は死んだ。難産の末だったと聞いているがそれだけではなかった。今思えばエホヤキム王の第四年、カルケミシュでバビロン軍がエジプト軍を破ったあの戦いがバビロニア時代の到来を告げたのだ。エホヤキム王はバビロニアに恭順のそぶりを示したが、その後の一時的な戦いでエジプトが優勢になると、態度を変えて貢税を中止するという不埒な挙に出たから、ついにネブカドネザルは軍勢を率いてやってきた。エレミヤはずっと前からバビロニアによるエルサレムの滅亡を預言していたが、それが到来しないうちは嘲笑され断罪され命を狙われさえした。だがとうとう、その預言が現実のものとなる時が訪れたのだ。不安と心労の中での長時間にわたる出産で体力をなくした母には、その後の軽い風邪が命取りとなった。祭司として務めていた父アビヤタルは、最悪の事態を想定し、生まれた子を父祖の代から親しくしていたレビ人マヘリとハンナに託した。十二年前の最初の捕囚の時だ。ネブカドネザルは戦死したエホヤキムに代わって王となっていたエホヤキンを退位させ、王宮の者たちは無論のこと、国の主だった人たちを皆バビロンに連れ去った。廷臣ばかりでなく鍛冶工匠や建築工も、もちろん祭司たちも伴われていった。だから、父アビヤタルも今バビロンにいる…はずだ。

 アビエルにとってマヘリとハンナが両親のようなものだった。少し前に生まれたメラリの世話だけでも大変だったろうに、彼らは「双子が生まれたようなものですよ」とこころよく引き受けてくれたとアヒメレク翁から聞いたことがある。今より小さかった頃、少しでもハンナを助けたいと、メラリと一緒に山や川に出かけて何か食べられる物がないか探したことがあったが、ハンナに知れると大目玉だった。「子供はそんな心配をせずにアヒメレク様からしっかり勉強を教わりなさい。食べる物の心配はいりません。必要な分はちゃんと手に入るのですよ。神様がからすを使って、預言者エリヤに食べ物を届けられたようにね」とハンナは言った。アビエルとメラリはいつも一緒で本当の兄弟以上に仲良く育った。

 

 その後ゼデキヤが王に立てられたが、彼は宮廷内の親エジプト派に押し切られる形でバビロニアへの忠誠を反故にしたから、当然のごとく怒ったネブカドネザルは軍とともにダマスコ北方のリブラに陣を敷いた。最初の捕囚から十一年、エルサレムは再び捕囚を経験することになった。今度こそ徹底的な破滅だった。神殿や王宮のみならず町中の家々が焼かれ、城壁も破壊された。エルサレムを逃れて逃げたゼデキヤ王もエリコ付近で捕まり、目の前で息子を殺された後、目をつぶされてバビロンに連行された。一度目の捕囚ですでに主要な人材も財宝もおおかたバビロンに移されていたが、二度目の捕囚は容赦ない苛烈なものとなった。あれからの日々をどうやって生きてきたか、つい一年前のことなのにうまく思い出せない。うめきと嘆きが地に満ちていた。神の都エルサレムは不滅ではなかったのか? 完全に打ちのめされ民は混乱と疑いの中で這いずるように生きてきた。破壊された神殿でできる限り祭儀を行おうとしたが、何しろ祭司がいないのだ。アロン系であろうとなかろうとレビ人が担うしかなかった。それまで続いたバビロン軍の駐屯のせいで、近隣の耕作地や放牧地も荒廃していたから、燔祭、罪際、酬恩祭として献納する家畜も穀物もまるで無かった。憐れなものだ。神に見捨てられたと言ってもいい。

「アビエルももう分別のつく年になった。わしもいつまで命があるとも知れん。そろそろ話しておかねばな」

と、アヒメレクは独りごちながら拝殿を出た。

 

 次の日アビエルが神殿の地下室に行くと、先に出たはずのメラリは来ていなかった。

「メラリには用事を頼んだのでな」

と老アヒメレクは言った。なんだかいつもと違うとアビエルは身構えた。

「アビエル、お前の母が亡くなったこと、お前の父がバビロンに捕らわれて行ったことは話したな」

「はい。おじいさまに僕を頼んでいかれたのですね。おじいさまがご無事で本当に幸いでした」

「わしは五十をとうに過ぎておったで、行かずにすんだのじゃ。アビヤタルはお前の教育をくれぐれもよろしくと言って出て行った。実はアビヤタルは書物を書こうとしておった。我々イスラエル民族の歴史とその救いに関することじゃ。だがこれからという時にエルサレムを離れねばならなくなり、お前が大きくなったらその執筆を頼んでほしいと言っておった。いや、執筆と言うより編集のようなものじゃな。資料はたくさんあるでな」

アビエルは胸がどきんとした。顔も覚えていない父、その父が書こうとしていた書物があるという。

「いいかアビエル、残るのは結局書かれたものなのだ。お前は我々イスラエル民族の来し方を書き記すのだ。できるだけ正確にな」

「そんなの無理です。僕が書くよりおじいさまが書いてください」

「はっはっは。わしの目はもう見えん。それに一朝一夕に書けるようなものでもない。書き上がるまで長い時間がかかるであろう。もちろん今のお前には無理だ。勉強がまだまだ足らん。わしも、知っている習わしや言い伝えを、まだ全部話してはおらん。明日からはこの仕事がお前の肩にかかっていることを頭に置いて、心して勉強に取り組んでもらいたい。この身に伝えられてきた父祖の伝承は全部お前に話す」

アビエルは逃れられないことを知った。

「…資料というのは、あの第二地下室で見たものですか?」

「そうだ。時に訊くが、ユダ王国の最後の名君は誰かな?」

「律法の書による改革をなさったヨシヤ王です」

アヒメレクは目を閉じて、何かを思い出すようにしばし沈黙した。

「そうじゃな。あの時大祭司ヒルキヤが見つけた律法の書の原書もあの図書保管庫にある」

 それから老アヒメレクはアビエルがそこで見た数々の書の由来を話して聞かせた。北のイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた時、多くの者たちがユダ王国に逃げてきたこと、それとともに多数の巻物ももたらされたこと、そしてエルサレム神殿の秘密の図書室に保管されたことを。すでに廃墟になっていたシロの神殿からは、祭司たちが書き残した古い巻物が沢山もたらされた。掠奪隊は書などに関心はなかったからだ。他にもベテルやダンの聖所、またギルガルやシケムやギブオン、その他地方の聖所から運ばれた資料も数多くある」

アビエルはちょっと頭がぼおっとした。そんな貴重なものがあの地下室に眠っていたのだ。

「もう一つ訊くが、ダビデが空腹でパンを求めた時、祭司用のパンを与えたのは誰であったかな」

「口頭試問ですか? ノブの祭司で、おじいさまと同名のアヒメレクです。ちなみにその息子は父上と同名のアビヤタルです」

「ははっ、その通りじゃ。アヒメレクのむすこはアビヤタルと決まっておるからの。さてその一族はどうなった?」

「ダビデを助けたかどでサウルに殺されましたが、息子アビヤタルは難を逃れ、ノブにいたダビデのもとへ行きました」

「それから? アビヤタルはその後どうなった?」

「ダビデの死後、アドニヤを王に擁立しようとしてソロモン王に敗れ、祭司職を解かれました」

アヒメレクの質問は矢継ぎ早だった。

「アビヤタルはそれからどうした?」

「確かアナトテの耕作地に帰ったのでは?」

「その通り。そして我らはその子孫なのだ」

時が止まった。頭が白くなった。

「今なんとおっしゃいました?」

「ソロモンによりアナトテへ追放されたアビヤタルは、わしのずっと前の先祖だと言ったのだ。当然お前の父祖でもある」

そんなことがあるだろうか。現におじいさまは祭司として勤められてきたではないか。そして父も…。

「そんなことがあり得ましょうか? アビヤタルは祭司職から追放されたのでしょう?」

「込み入った話なのじゃ。あの時ソロモンの側についたのは誰だったかな?」

「軍司令官はヨヤダの子ベナヤ、祭司はザドクです」

「その通り。世代交代が始まっておったのじゃ。ダビデがエルサレムに落ち着く前にヘブロンで生まれた王子やその従者たちと、エルサレムで生まれた王子や御付きの者たちが互いになじむことはなかったのであろう。ザドクの父は誰かな?」

「ザドクはアヒトブの子、アヒトブはシロの祭司エリの息子ピネハスの兄弟です」

「ならず者のホフニとピネハスのな。まともな祭司アヒトブが立てられたのは神の憐れみだ。だが、アヒトブの子はアヒヤとアヒメレクだ。ザドクではない。アヒヤはペリシテとの戦いで荒廃したシロ神殿の祭司に踏みとどまって、戦いの時もサウルとともに在り、祭司の務めを果たしていたではないか。エポデを持ってな」

「どういうことです? ザドク様がアヒトブの子であることは皆知っております。そしてアヒトブはエレアザル、アロンへと繋がる最も貴い祭司の家系です」

「では訊くが、ヒルキヤはどこの出身であったか?」

「あっ。アナトテ…」

「そうじゃ。ヒルキヤには子供の頃よく面倒をみてもらったものじゃった」

「なんと…! それから何があったのです?」

「ソロモン王は賢者の誉れ高く、仕えた祭司ザドクも立派な祭司であったろう」

「おじいさま、ザドクと聞いて真っ先に頭に浮かぶのは息子アヒマアズのことです。確か、アブサロム王子が亡くなったとき、それをダビデ王に知らせる伝令と共に走って行ったのではなかったですか?」

「そうじゃ。伝令よりも早く到着し、アブサロムの死を知っておったのに、息子の安否を尋ねるダビデに、『大きな騒ぎを見ましたが、何事であったか知りません』と答えた男だ。ダビデが息子アブサロムをどれほど愛していたか知っていたからの」

「頭のよさは父親譲りなのでしょう」

「だが血筋がな。血筋などどうでもいいことではあるが、気になるのが人間と言うものじゃ。わしも大きくなってから父にその話を聞いた時は信じられなかった。それはマナセ王の治世第四十六年のことじゃ。わしはまだほんの小さな子供じゃった。アナトテにおったわしの父に祭司職に復帰せぬかという打診がエルサレムからあった。父は思いがけない話に驚いたそうだが祭司職への復帰は一族の悲願、たいそう喜んだ。だが、その話には条件があった。父は悩んだ末、祭司職に就く代わりに、『以後アヒトブの子孫であることを名乗らない』との誓約に甘んじたのじゃ」

「それでは、おじいさまこそアロンの末裔…」

 

 ガタンと大きな音がした。

「誰じゃ」

その方を見るとメラリが腰を抜かしていた。メラリはこけつまろびつ走り寄ってくると、アヒメレク翁の前にひれ伏した。

「どこから聞いておった?」

「お赦しください。お言いつけどおりアサフの家に行ったのですが、今日は加減が悪くて幕屋のとばりの扱い方を教えられないとのことでした。すぐ戻ってアビエルを驚かそうと隠れていたのですが、声を掛ける機会を逸してしまったのです」

「つまり最初からか」

「お赦しください。決して盗み聞きする気はなかったのです。それからアヒメレク様、これまでの非礼の数々についても平にお詫び申しあげます」

そこでメラリは一息おいて、意を決して言った。

「アヒメレク様、もう一つ非礼ついでにお願いがございます。私にも我が民族の史書の編纂を手伝わせてください」

メラリは伏したまま動かなかった。アビエルもアヒメレクに向かってガバッとひれ伏した。

「おじいさま、私からもお願い致します。編纂のお仕事をメラリと一緒にやらせてください」

アヒメレクはしばらく口を開かなかった。頭を床につけたまま、二人は息を詰めていた。

「生半可な気持ちでできることではないのだぞ」

「はいっ」

また沈黙の時が流れた。

「お前たちは不思議な縁で結ばれておるのじゃな。アビエル、お前はこの大仕事が背負いきれるか不安だったのじゃろう」

「実を言うと、預言者エレミヤのような気分でした」

「はっはっは。エレミヤを知っておったか。気の毒な男だ。預言者などになりたくなかったのにな。神様からの召しは拒めないのだ。しかし、あの男ほどものが見えていた預言者はいない。歯に衣着せぬ物言いで、イスラエルの民の背信を指摘し、神の道具たるバビロンによって滅ぼされることを初めから語っておったから、皆に憎まれたがの」

「アヒメレク様、あのう、前に父が何気なく言っていたことを思い出したのですが、エレミヤの父はアナトテの祭司とか…」

「マヘリがそんなことを言っておったか。マヘリはまだ生まれておらんかったが、あの時マヘリの父の一家も一緒にアナトテを出たんじゃ。他にも幾人かの祭司やレビ人家族がいた。赤ちゃん連れの祭司もいたが、その祭司こそ後に大祭司となったヒルキヤじゃ。エレミヤはその時の赤ん坊、平穏な時代であれば、エレミヤも祭司になっていたであろうに」

アビエルが口を挟んだ。

「今のお話し、大変驚きましたが、それでわかった気がします。律法の書が見つかった時、ヒルキヤ様や大臣および書記官たちが神の託宣を求めて、女預言者ホルダのところに行ったというのがどうにも腑に落ちなかったのです。ヒルキヤ様は息子のエレミヤのところに行くわけにはいかなかったのですね」

「エレミヤはヨシヤ王の改革に好意的だったと思うが、公式的には口を閉ざしていた。ザドクの子孫に取り入ってまでエルサレム神殿の大祭司になった父に、何か釈然としないものがあったのかもしれんな」

再び沈黙に包まれた。アビエルとメラリの頭はもう麻痺寸前だった。

「今日はこれで終わりにしよう。お前たちとこんな話ができるとはな。だが、お前たちが背負ったものは途轍もなく大きい。遊び半分の勉強では到底成し遂げられんぞ。明日からは容赦なく鍛える。何しろお前たちは神の箱に手を掛けてなお生きておるのだからのう」

二人は震え声で答えた。同時に同じ言葉が出た。

「明日から本気で勉強いたします」

「右にも左にもそれずにな」

老アヒメレクは出て行った。

 それから二人はいつものようにエルサレムの町中を歩いた。いつもと違うのは一言も話さなかったことだ。一日中歩いて日が落ちる頃、黙ったまま家路についた。その日を境に二人は大人になった。




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 第2章へ続く


 

 












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ヨシュア20:4〜7


















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レビ記19:32












































列王下25:1〜6

エレミヤ39:1〜2
























































































































































列王下25:13〜17
























































エレミヤ46:2
















列王下24:6

列王下24:12〜16

















列王上17:2〜6






列王下24:17


列王下25:4〜12


























































































列王下22:8



















サム上21章










サム上22:20




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サム下8:17/歴代上6:8, 18:16




サム上14:3
























サム下18:22〜29













































































































列王下22:14




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