第2章



 翌日から猛勉強が始まった。学びの基本は暗唱であり、老アヒメレクが語る言葉を聞いては覚えることの繰り返しだった。アヒメレクの口からは滑らかに伝承の糸が繰り出された。アビエルとメラリはそれを復唱し頭に叩き込んだ。三日ごとに暗唱の試験があり、覚えていないと雷が落ちた。アヒメレクの知っている伝承は無限にあるかのように思えた。

 暗唱の時間の次は読み書きの勉強だった。基本を学ぶと地下の図書室に降り、パピルスや巻物の扱い方を教えられ、そこにある書を読む練習をした。丁寧に気をつけて扱わないと崩れてしまうほど古い書もあった。書は基本の文字を知っているだけで読めるわけではなく、最初二人は相当昔に書かれた文字の読み取りにずいぶん難儀したが、次第に慣れて行った。わからないところは老アヒメレクが傍らについてゆっくり読みながら教えてくれた。やがて一人で読めるようになると、図書室の書の中から好きなものを選んで読むことも許された。すいすい読めるものもあれば全く読めない文字で書かれた書もあった。

「おじいさま、これはなんと読むのですか?」

「古代の文字じゃな。わしにも読めん。この文字を読める者はもうこの国にはおらん」

アヒメレクにも読めない字というものがあったのだと知って心底驚いた。

「もしかして、モーセが神様から与えられた石板に書かれていたのもこのような文字ですか?」

「かもしれんな」

書を読む授業は集中力と忍耐がいるものだったが、それなりに楽しく、次第に読めるようになっていく充実感もあった。

 

 アビエルとメラリは地下の図書室でこのような授業だけを一日中していたわけではない。レビ人として祭儀に関する学びも重要であった。神殿はなくなり国も荒廃していたから、燔祭や酬恩祭および罪祭を献げる人は減っていた。家畜や穀物を手に入れるのが困難になっていたのだ。しかし減ったとはいえ、神への献げ物を持参する人がいなくなったわけではない。神殿跡地で行われる牛や羊の祭儀手順を学んでおく必要があった。神への献げ物など馬鹿馬鹿しい、我々の神はもういないのだと悪態をついて町中をさすらう人も多かったが、逆に神の沈黙の中で自らを振り返り、今の有り様の原因を民族全体の、いや何より自分自身の罪の中に見出した者もいたのだ。この国の民は王国が滅ぶずっと前から、うわべは律法に従ったふりをしながらその実神をないがしろにし、我が心のままに過ごしてきたのではなかったか?

 時折、アヒメレクはアビエルとメラリをレビ人の仕事場に連れて行き、自分は出かけることがあった。エルサレムの外に出ているらしかった。或る晩、疲れた様子で帰宅したアヒメレクにアビエルは思い切って尋ねた。

「ミヅパに行かれたのですか?」

「ああ」

「何かわかりましたか、父上のこと」

「いや。それどころではない。総督ゲダルヤが殺されたというので大騒ぎだった。不穏な空気が流れており、バビロニアの報復があるのではないかと噂していた。三度目の捕囚があるかもしれん」

ミヅパはシロ神殿を離れた預言者サムエルがよく立ち寄った聖所のある町だ。破壊を免れ今は行政府が置かれている。ゲダルヤは書記官シャパンの孫でアヒカムの子だった。ずっと前に神殿の庭でエレミヤが「エルサレムもやがてシロ神殿のように廃墟になる」と語った時、祭司たちや民衆に憎まれもう少しで殺されるところだった。その時エレミヤの命を救ったのがアヒカムだった。今やこの国は最も必要な、そして最も信頼に足る指導者を失ってしまった。その晩、「イスラエルはいったいどうなってしまうのだろう」と、床に就いたアビエルは暗澹たる気持ちで眠れなかった。

 

 何があろうと日々の生活は過ぎてゆく。神殿祭儀に関して言えば、アカシア材や青銅が入手困難なため祭壇はほんのかりそめのものだったし、祭儀に使う鉢や壺の器類、火皿、十能、洗盤等は持ち去られていたから、新たに整えなければならなかった。これまで通りの礼拝を行うには何もかも不足していたものの、アヒメレクによってアビエルとメラリは順調にその学びと訓練を進めていた。会見の幕屋はいつの日か作ることが許された時いつでも作れるよう準備だけはしておかなければならない。柱や横木、留め金や金属の輪、幕屋のとばりの織り方や紐の作り方、扱い方等々を、アビエルとメラリはそれぞれの専門のレビ人のところで勉強した。学ぶことは数限りなくあった。

 二人は安息日以外の毎日一生懸命励んだが、ふとした拍子に虚しさを感じることがあった。アヒメレクはそれを見逃さなかった。

「どうした?」

「おじいさま、この前の捕囚ではラマから旅立った捕囚民のうち、祭司長セラヤ様やゼパニヤ様はじめ祭司たちはリブラで殺されたのでしょう? 父上たちはカルデヤ人の地で無事に暮らしているのでしょうか? 戻られる日もあるのでしょうか?」

畳み掛けるようにメラリも言った。

「私は以前、エレミヤが書記官エラサとゲマリヤの手を介してバビロニアに手紙を送ったと聞きました。『かの地で家を建て耕作して食料を得、また結婚し子供を産んでしっかり生活せよ』とのことだったとか。これはもうバビロンから帰還することはできないと考えるべきだということなのでしょうか?」

アヒメレクは答えた。

「エレミヤは『捕囚は二年で終わる』と言った預言者ハナニヤの楽観的な見通しを、厳しく非難しておった。首に掛けた木のくびきは、ハナニヤが叩き壊したところで、やがて鉄のくびきに変わるだけだ。それほどバビロニアの支配は強固なものだと。結局のところエレミヤの言う通り、平和に関する預言をする者が神からの預言者かどうかわかるのは、その言葉が成就するか否かによるのだ」

「ハナニヤはイザヤという預言者の弟子だと聞いたことがあります」

「まさかそんなことはあるまい。イザヤか。わしも会ったことがないほど昔の預言者じゃ。強い召命意識を持ち、民の不信仰を断罪し神の裁きについて語っていたと言う。エジプトやクシュと共に反アッシリア同盟を結ぶ愚かさを説くため、三年間、裸、裸足でエルサレムの町を歩いたという異色の人物でもあった。ほかにも不思議なことを言っておったという話じゃ」

「不思議なこととは?」

「弟子たちが語るところによれば、全世界の民の救いじゃ。イスラエルの贖いのみならず、諸国の光として遣わされる者があると」

「全世界の民とは、エジプトもアッシリアもバビロニアもですか?」

「そうなるじゃろうな。イスラエルの神、万軍の主、『わたしはある』

という名の神を受け入れ信じる者はすべてじゃ」

「そんな!」

「イザヤは、ダビデ王の子孫からすべての民の旗印として立てられる者が現れると言っておったようじゃ。その言葉の意味をわしも計り兼ねておる。だが、イザヤが死んでもその弟子たちは消えずにおる。語った言葉が残るのはああいう男かもしれんな」

メラリは自分の心情を隠すことができなかった。

「アヒメレク様、ずっと私の心にかかっているのは、ユダ王国はもう二度と再興できないのではないかということです。それを思うとつらくて体に力が入らないのです」

「エレミヤはこうも言っておるぞ。『バビロンで七十年の時が満ちるなら、あなたがたをこの所に導き帰る』と」

たまらずアビエルは声を上げた。

「七十年! 私が生きている間ではないですね」

「しかしだからといって、お前たちがすべきことが変わるわけでもなかろう。お前たちに託された務めは果たして七十年で終わるのかの」

一瞬の沈黙が流れた

「おじいさまのお考えはわかりました。確かにその通りです」

アビエルがメラリを見ると、その顔には決意が見て取れた。自分たちには使命がある。イスラエル民族の書は何としても書き上げなくてはならない。アビエルとメラリは再び勉強に没頭した。こうして瞬く間に七年が過ぎた。

 

 それから後は地下の図書館で過ごすことが増えた。まずここにある本を一つずつ読んで年代ごとにまとめなければならない。つまり書かれた内容をおおよその年代順に戸棚に整理し直すのだが、その前に頭を整理することの方が大仕事だ。本の中にはすでに読んでいたものもかなりあったが、これがこれから書くものの資料になるのだと思うと気が引き締まった。老アヒメレクは奥の棚から一つの巻物を持ってきた。

「これはまだ読んでおらんじゃろう。わしが先祖から受け継いできたものじゃ。幾代か前の、その名もアヒメレクが書いたものだと言い伝えられておる。『律法に相当する書』もしくは『申(かさ)ねての命令書』すなわち『申命記』と呼ばれてきた。これも重要な資料となるはずじゃ」

「読んでよろしいですか?」

「ああ、読み上げてくれ。わしも最後に読んだのは、確かヒルキヤが律法の書を発見する前だったな。その後は読んでおらん」

アビエルとメラリは交代でそのかなり長い書を読み上げた。アヒメレクは目をつぶって聞いていた。読み終えてアビエルが言った。

「最初に導入の言葉を入れて、最後もまとめの言葉を追加することになりましょうが、かなりの部分がそのまま使えそうですね」

その時、メラリが口を挟んだ。

「アヒメレク様、今の書の中でモーセがシナイ山で神から石の板を与えられた箇所がありましたが、そこに書かれていたのは十戒と考えてよろしいのでしょうか?」

「なぜそんなことを訊く?」

「以前私が読んだ書には『律法と戒め』と書いてあったように思うのです」

ああ、時々メラリは鋭すぎる。こんな問題にさらりと触れるのがメラリなのだ。だが石の板はあまりにも剣呑だ。石の板についてアヒメレクに問ううち、逆にあの日のことを問い詰められたらどうする…。アビエルはハラハラした。

「さほど違わんじゃろう」

「ええ。ただそれは『神の文字』だったとも書いてあったので、もし以前お聞きした古代文字のようなものでその時代の人にも読めないものだったとしたら、なぜそこに書かれた内容がわかったのかと不思議で」

しばらくしてアヒメレクは答えた。

「あれは十戒じゃよ。それでいいんじゃ」

それを聞いて、自分でも驚いたことに、アビエルが声を上げた。

「そのことですが、おじいさま、私もずっと不思議に思ってきたことがあります。イスラエルでは本当にしばしば偶像が作られてきました。ベテルとダンの祭壇には金の子牛像がありましたし、礼拝の対象でないとはいえ、ソロモンの建てた神殿にはツロの青銅細工人ヒラムに作らせた装飾品がそこかしこにあったでしょう?」

「ヒラムってツロの王様?」

メラリがこっそりアビエルに訊いた。

「同名だけどもちろん別人。彼はナフタリ族の人」

「ああ、勉強不足がばれちゃった」

アヒメレクが静かに口を挟んだ。

「ヤラベアムを弁護するつもりはないが、ヤハウェは金の子牛に乗って来ると思われていたから、彼は神の乗り物たる台座を作ったつもりだったのじゃろう。だからといって、もちろんあれは許されないものだ」

アビエルは顔を曇らせたまま、話を続けた。

「それだけではありません。神殿の庭にあった青銅の『海』には、東西南北にそれぞれ三体ずつ十二体の美しい雄牛の装飾が施されていました。厳密にはああいうものもどうなのでしょう。そうそう、モーセの「青銅の蛇」などヒゼキヤ王が破壊するまで存在したのですよ。人々が十戒を知っていたならいくらなんでもあり得ないことではないでしょうか?」

アヒメレクは静かに言った。

「人間は弱い。見えるもの、形あるものに本当に弱いのだ。すぐさま頼ってしまう」

「それでも初めから厳しく諌めてあったのならここまでひどくはならなかったでしょうに。それは神にあらざるものを神にするということなのですから」

畳み掛ける二人に対し、話を終わらせようとするかのようにアヒメレクはきっぱり言った。

「お前たちは、石の板に書いてあったのは十戒ではないと言いたげだな。いずれにせよ、偶像崇拝は決然とやめるよう明確に記さねばならないな」

「ケルビムはどういたしましょう。至聖所と神の箱の上に付けられていたケルビムほどはっきりした像はありません。神の箱は焼失しました。しかし作り方は細部まで頭に入っております。もしいつの日か神殿が再建される日には神の箱も正確に再現することはできます。しかしケルビムは! あれを像でないということはできますまい」

アヒメレクは黙っていた。それから冗談のようにこう言った。

「先のことはよい。できるだけ資料に忠実にまとめるのじゃ。ダビデがミカルの助けでサウル王の手から逃げる時、家にテラピムの像がなければ身代わりにして逃れることはできなかったじゃろう、はっはっは」

 

 その年も過越の祭となった。翌日からは種入れぬパンの祭りが七日間続き、その最初と最後の日は聖なる集まりが開かれる安息日だった。その間、動物供犠の祭儀を行わなければならなかったし、続いて初穂の祭もあったから、この時期は地下室での仕事は中断された。秋もぶどうが収穫される頃、ラッパの祭、贖罪の日、仮庵の祭が続いてあり、また春と秋の間、初穂の祭から七週後にも穀物の献げ物の祭儀があった。王国の滅亡後は過越の祭や仮庵の祭において、動物や穀物を焼いて献げることもさることながら、祭司やレビ人によってなされる律法の朗読や説教が礼拝において大事な要素になってきていた。国の滅亡というこの状況に際し、イスラエルの民はこれまでとは違う悔い改めと神への立ち返りの形を求めていた。もしもエルサレムの再興があり得るとするなら、それは自らの信仰のあり方を問い直すことからしか起こり得ない。かつて王宮の人々や祭司たちの怒りを引き起こし、また民衆を打ちのめした預言者たちの言葉は、今じわじわとイスラエルの全会衆に影響を与えつつあった。民の心を揺り動かし目覚めさせ、あるいは立ち上がらせるのは神の言葉なのだ。エレミヤはすでにずっと前に「神は燔祭も穀物の献げ物も喜ばない」と、公然と語ったではないか。

 現実を直視するなら、心ある民が一縷の望みをかけていた総督ゲダルヤが、イシマエルによって暗殺されたことにより、共同体の再建の希望は潰えた。状況は絶望的であり、三回目の捕囚も行われた。ゲダルヤ暗殺後、報復を恐れてエジプトへ逃げた高官たちは、その地へエレミヤも同行させたが、真の預言を語るエレミヤを残して行けなかったのは、彼の語る預言がどのようなものであろうと、なお神の言葉を聴かずにはおれないゆえだったのか。

 かつてエジプトとバビロニアの覇権争いに際して、神殿の祭具と共にバビロニアに移された王族の中にはダニエルがいたが、神殿喪失時の捕囚でアビヤタルとともにバビロンへ移された人々の中にはブジの子祭司エゼキエルがいた。神殿など望むべくもない異郷の地で神に捧げる礼拝があるとしたら、それはやはり律法朗読や説教、そして祈りにならざるを得なかっただろう。エゼキエルはもはや祭司ではなく、神に託された言葉を語る者となった。ケバル川のほとりでおそらくはしばし茫然とし、あるいはかの地の人々の嘲りを聞いてひとしきり泣いたであろう。だが、それから彼は立ち上がり、透徹した頭で預言を開始した。彼は神の乗り物であるケルビムの幻を見て、神殿はなくとも自由自在にどこにでも存在し得る神について語った。エルサレムでもバビロンでも、神を信じ神に依り頼んで生きようとする人々はいたのである。

 

 安息日を入れると地下室で仕事ができる日は限られていた。地下室に行ける日はアビエルとメラリは資料の解読と整理に没頭した。頭がくらくらして消耗したが、気持ちのよい疲れだった。二人は休憩時間に蜜をなめた。最近はアヒメレクが地下室に来ない時もあった。アヒメレクはレビ人に祭司の務めを指導する立場にあったし、祭儀や律法朗読の務めを過誤なく行うための目配りで忙しそうだった。時々エルサレムを出ていることもあるようだ。まだまだ元気そうだが体を労わってほしいとアビエルは思った。

「安息日っていつ頃からあるのだろうな」

アビエルが何気なく訊いた。

「大昔からだろう。体を休めるための掟なら農耕が始まってからかな。

放牧時代なら動物に休みは関係ないだろ? アビエル、神も休まれるのか?」

「ああ、そうだ。世界の初めに、神は六日のうちにすべてのものを造られて、七日目に休まれた」

「六日のあいだ仕事をし、七日目に休む…。神のために取っておく日ということか」

「神に捧げる日…か。より正確には、本来的に神に所属する日ってことなんじゃないだろうか? 律法には必ず何らかの理由があるのだ。それはともかく、何もしてはいけないというのはいつ頃からのことなのだろう。シュネムの婦人の子供が死んで、彼女が急いでエリシャに会いに行く話があるよね。その時、夫が不思議がって『今日はついたちでも安息日でもないのになぜ行くのか』って尋ねる。これって普段はついたちか安息日に行ってたってことだろ? 彼女はろばを駆ってカルメル山まで行く…。考えられないことだ。当時は許されていたのだ。それとも預言者の所に行くのは別なのか」

「その話があったな、アビエル。それに、エリコの町の石垣が崩れた

話もあったよね。六日間町の周りを一度巡り、七日目は七度巡ってラ

ッパを吹き鳴らす…その間、安息日があったはずだが守られた形跡がない」

「やはり、昔は厳格に守られていなかったのか。もしくは…」

アビエルの言葉を引き取って、メラリが言った。

「安息日のことがあまり知られていなかったのか」

アビエルはメラリが同じことを考えていると感じた。十戒…、石の板…、神の箱あるいは契約の箱…。そもそも二人を分かちがたく結びつけているのはあの箱の記憶なのだ。

「さてと。『蜜より甘いものに何があろう。獅子より強いものに何があろう』とはよく言ったものだ」

メラリが唇をなめながら言うと、アビエルが答えた。

「獅子より強いものは知らんが、蜜より甘いものは書物だな」

「だな」

二人は目を合わせて笑った。



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 第3章へ続く






















































































列王下25:25



サム上7:16

列王下25:22


エレミヤ7:12〜14

エレミヤ26:24

 




























列王下25:18〜21

エレミヤ52:24〜27

 




エレミヤ29:1〜7








エレミヤ28:10〜14





































イザヤ11:10












エレミヤ29:10

































































出エジプト24:12











出エジプト32:16















列王上12:28〜30








列王上7:14



















列王下18:4




































サム上19:11〜17





























エレミヤ14:12




列王下25:25〜26


エレミヤ43:5〜7






ダニエル1:1〜7


エゼキエル1章









































出エジプト20:11












列王下4:23









ヨシュア6:3〜5
















士師記14:18

 





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