第3章


 それからまた一年が過ぎ、資料の粗い読み下しと分類整理は終わった。準備が整ったのだ。アビエルとメラリがいよいよ編集に入ると告げると、老アヒメレクはやってきた。
「全部読みおったか。さて、書物の構成はどうするかのう」
アビエルはメラリと話し合ってきた二人の考えを説明した。
「おおよその年代ごとに並べた資料を九つの山にしてみました。第一の書は、この世界のはじまりから、アブラハム、イサク、ヤコブの系譜とエジプトへ売られたヨセフの物語まで。第二の書は、エジプトで増えたイスラエルの民をモーセが率いてエジプトを出て、荒野を放浪中に神と契約を結ぶところまで。第三の書は、契約に関する神と民の約束事とそれを果たすためのレビ人の務めについて。第四の書は、エジプトを出たイスラエル十二部族の記録や起こった出来事について。そして第五の書において、父祖アヒメレクの書かれた律法の書をうまくつなげて前半の区切りとします」
メラリが言葉を継いだ。
「第六の書は、モーセの死後ヨシュアに率いられたイスラエルがカナンに土地を得ようとするところまで。第七の書は、周辺諸部族との戦いの時代に出現した指導者と言うべき士師たちと、その時代の出来事の記録。第八の書は、サウルやダビデが王になるまでの経緯をまとめたもので、預言者サムエルの記と言ってもいい。第九の書は、ソロモン以降のこれまでの王国の歴史。ざっとこんなところですが」
「ふむ。まあよいじゃろう」
アヒメレクがあっさりそう言ったので、二人はほっとすると同時に拍子抜けした。
「それでどこから書き始めるつもりじゃ?」
アビエルが答えた。
「初めから書けるとよいのですが、この世の始まりを書くのは意外と難しいですね。かなり古い資料がありましたがそれらをただ書きつないでよいものかどうか。アブラハムあたりからは書けそうな気がするのですが」
「最初のところはわしに考えがある」
とアヒメレクは言った。
どういう書き始めがよいかずっと思案してきたが、なかなかよい考えが浮かばなかったので、「ありがたい!」とアビエルは思った。
「教えてください。どんなふうに書き始めますか?」
アビエルの言葉に、珍しくアヒメレクは言いよどんだ。
「うーむ。まあ、それは後にしよう」
何かお考えがあるのだろう。それなら、とりあえず第一の書は脇に置いて次に進むしかない。
「では、第二の書からに致しましょう」
編集作業は第二の書からと決まった。メラリが作業分担を提案した。
「アビエルは第二の書『出エジプト記』を、私が第三の書を書くというのはどうでしょう。レビ人として『レビ記』を書きたいのです」
「私だってレビ人だぞ」
「そうかもしれんが、お前はアロンの家系だからな」
言い合いになりそうな様子に、アヒメレクが決着をつけた。
「メラリの提案通りでよかろう。二人ともそこから書き始めよ」
続けてアヒメレクは言った。
「それが書けたら、ついでメラリが第四の書『民数記』を、アビエル
が『申命記』をまとめるがよい」
アビエルはアヒメレクの考えを慮った。『申命記』の原本はアヒメレクの幾代も前の父祖の手になるものだ。だから、家宝ともいうべきこの書の編集を自分に託したいのかもしれない。アビエルがメラリを見ると、メラリはそれでいいと言うように頷いた。
「残りはどう致しましょうか?」
とメラリが尋ねた時、初めてアビエルはこれまで分担について話してこなかったことに気づいた。
「何か書きたいものがあれば言ってみよ」
とアヒメレクが問うた。書きたいものか…、考えたこともなかったな、とアビエルは思った。できれば書きたくないものはあるが。やがてアビエルは、恐る恐る口ごもりながら言った。
「士師の時代の話は、こう言ってはなんですが、ちょっと野蛮と言いましょうか、私にはえげつなさが堪え難くて…」
メラリはあっさり助け船を出した。
「では『士師記』は私が書きましょう。相当古い資料がありますのでまとめるのは案外楽かもしれません。アビエル、お前はその前の時代
を頼む」
「ありがとう、メラリ。では私が『ヨシュア記』だな」
アビエルはほっとした。いつもそうだ。こんな時、メラリは阿吽の呼吸でわかってくれるのだ。ほんの少し先に生まれただけなのに、メラリは完全に兄貴分だ。そうして自分は安心して暮らしてきたのだとアビエルは思った。
「あとの二つはどちらか好きな方を選んでくれ」
「そりゃあ、お前が『サムエル記』、私が『列王記』に決まってるさ。ダビデと先祖アヒメレクおよびアビヤタルの繋がりはお前が書くべきだ。私は各時代の王のすったもんだを書いてやる」
三人は顔を見合わせて頷いた。
「これで決まりじゃな」
 編集の分担が一段落したところで、アヒメレクは尋ねた。
「アビエル、『出エジプト記』の最初の部分はどんなふうになりそうかな?」
「はい、おじいさま、モーセの出生の秘密から始めて、若い時に彼が犯した罪、それからミデアンの祭司の娘婿として羊を飼っていた時に
召命を受けたことをまず書こうと思います」
「ふむ、まあそれでよいのじゃが、その前の冒頭のところで、エジプトにやってきたヤコブとその息子たちのことに触れておいてくれ。すなわち、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、 イッサカル、ゼブルン、ベニヤミン、 ダン、ナフタリ、ガド、アセル、そしてヨセフについてな」
「でも、第一の書の終わりにヨセフと兄弟たちの再会やその後の詳細を書くつもりでおります。それでもやはり必要でしょうか?」
「ああ、頼む。九つの書はそれぞれ或る程度独立したものとして書いてほしい。一巻ずつでもいつ頃の話かわかるようにな。読み上げられた時、前後が思い出せるようだと一番よい」
「読み上げられる?」
「無論そうじゃ。民の集まる聖なる祭や集会で読み上げられることになろう。そのつもりで書かねばならん」
「わかりました」
アビエルとメラリは顔を合わせた。責任は重大なのだ。二人の顔は引き締まった。
 それから手順を決めた。各自の分担を書き始める前にその書の構成について納得いくまで話して決めること、毎朝短時間でもそれぞれがその日に書く部分の概略を説明し、よく話し合うことなどだ。あいまいな部分や疑問点はできるだけなくしたい。書き直しはできないし、書こうとすることの方向性がずれるのは避けねばならない。その日に書いたものは夕方アヒメレクの前で読み上げて確認することは言うまでもない。こんなふうにしてともかくも編集作業が滑り出した。

 二人とも最初に手を付けた書が書き進んだ頃、或る朝の打ち合わせでアビエルはメラリに言った。その日、アヒメレクは町の外に出かけていていなかった。
「『出エジプト記』はずいぶん書き進んできた。これまでのところをまとめると、最初の重要な場面はモーセがホレブ山で神から召命を受けるところだね。燃える柴をめぐる霊的体験ははずせない。炎に包まれているのに燃えて無くならない柴に近づいたら、神はモーセの名を呼んだ。そして、そこは聖なる地だから履物を脱ぐように命じた後、『わたしはあなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブ
の神である』と名乗られる。神がモーセを呼んだ訳は、エジプトの地で虐げられているイスラエルの民を、乳と蜜の流れる地へ導き出させるためだった」
じっとメラリが自分を見ているのにアビエルは気づいた。
「何?」
「いや、モーセになったつもりで聞いていたんだ。困るなと思って。だってモーセはエジプトから逃げて来て、ようやくチッポラを妻に迎えて新しい生活を始めようとしていたんでしょ? いきなりそんなこと言われてもね」
「私たちだってそうだったじゃないか。神様の御用はこちらの準備が整っていなくたってやってくるものなのだ。モーセも自分がファラオのところに行ってそんな願いをするなんてとんでもないと答えるのだが、神から、『わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしがあなたを遣わしたしるしである』と言われてしまう」
「それが最強のご加護であることを知るには相当の経験を要するのだろうな」
「だから次にモーセは、イスラエルの民にその神の名を聞かれた時な
んと答えればよいか尋ねる。その答えは、『わたしは、有って有る者』だった」
「さっきの名乗りと違うね。『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』ならしっくりくるけど」
「この時、神は両方の名乗りをされているのだ。深い意味があると思わなければならないだろう。神はエジプトを出る方法を告げるけれども、モーセは不安でしかたない。それで神は蛇になる杖などいくつかの不思議な業をする力をモーセに与えられる」
「だが、それでもモーセの心配は解消されない…」
「そうだ。自分は口が重く言葉の人ではないからと、依然としてこの大きな使命を辞退しようとする。神が『言うべきことはわたしが与える』と告げてもなお、『どうか、ほかの適当な人をお遣わしください』と応じる始末。ついに神は怒りを発する」
「当然だろう。それで言葉に優れた兄のアロンが共に遣わされることになったんだな」
アビエルが話を進めようとした時、迷った表情のメラリが尋ねた。
「なあ、アビエル。モーセは数奇な出生の人だったよね」
「ああ、そうだよ。イスラエルの人々の数が増えたため、ファラオは生まれた男子をナイル川に投げ込んで殺すように命じる。だが、或るレビ人が妻の産んだ子を三か月隠しておくが、隠しきれずにその子を籠に入れてナイル川の葦の中に置く。すると身を洗おうとやってきたファラオの娘がその子を見つけ、憐れに思って乳母に、本当は実母だが、託してその子を育てる。そしてその子が成長するとファラオの娘が引き取ってモーセと名付けたという話だ。私たちにはなじみ深い話だが、あらためて考えると奇想天外と言うほかない」
「それだけに、なにがしか大きな真実を秘めているに違いない。私が関心を持っているのは、モーセが自分をエジプト人だと思っていたのか、ヘブル人だと思っていたのかということだ」
「ばかなことを! ヘブル人に決まってるじゃないか」
「エジプト王家の人だぞ。乳母というか、実母のもとで育ったのは幾つくらいまでなのかな」
「彼女はその子が成長してから、ファラオの娘のところに連れて行ったことになっているけど。サムエル様の場合も乳離れするまでハンナのもとにいたものね。二、三年はいたんじゃなかろうか」
「まあ確かに、三つ子の魂百までっていうから、その間にヘブル人としてのメンタリティが養われたのかもな」
「ともかく大人になったモーセは、同胞のヘブル人が激しい労役中にエジプト人に打たれるのを見て、義憤に駆られてそのエジプト人を殺してしまうという事件を起こす。でもその次の日、ヘブル人同士の争いを仲裁しようとして自分の罪を指摘されてしまう」
「モーセはとても難しい立場だよ。エジプト人からは同胞ではないと見られ、ヘブル人からは生粋のヘブル人として扱われない」
「結局、ファラオに命を狙われミデアンの地まで逃げて来る」
「わっ、展開がはやい。でもエジプトの宮廷ではスキャンダルだったろうな。いやしくも王家で育った人なのだから。モーセにとってもエジプトとの決別はそう簡単ではなかったろう」
「だから、神の山ホレブであの燃える柴に現れた神との出会いが、ヘブル人としてのモーセのアイデンティティを決定づけたということになるんじゃないか?」
アビエルとメラリは、しばし考えを整理する時間をとった。それから、仕切り直すようにメラリが言った。
「ちょっと気になったんだけど、ホレブってシナイ山のことでしょ?」
「まあそうだけど」
「なんだ、歯切れが悪いな。『民数記』の資料にはシナイ山しか出てこないぞ」
「次に書く『申命記』の原本を時々読んでいるから、つい癖になったのかな。そこにはほぼホレブ山と記されているからね。きっと別系統の伝承なのだ」
そう言って一息おいてから、アビエルはメラリに言った。
「モーセ一行の旅の道のりは出来事とともに書いておくけど、できたらメラリも書いておいてほしいな。ちょっと自信がもてないんでね」
「珍しいな。いいよ、『レビ記』では無理だけど、『民数記』に書くね」
アビエルが『出エジプト記』の筋書きについての話を再開した。
「それからモーセは妻子とともにエジプトに戻り、同行したアロンと一緒に大事業にとりかかる。エジプトを出るまでの経緯とその後の顛末は長い話になったけど、イスラエルの民を去らせたくないファラオも、エジプトを出て荒野をさまようイスラエルの民もどちらも、喉元
過ぎれば熱さ忘れるという点では同じだな」
「エジプト王のしつこさは並大抵じゃなかったね。モーセは神に与えられた力で対抗するけど、ファラオはすぐに約束を反故にする。蛇に変わったりナイルの水を血に変えたりする杖でしょ、カエル、ぶよ、あぶの大群、家畜の疫病、腫れ物…あと何だっけ?」
「授業を思い出せ。アヒメレク翁の渋い顔を」
「あ、反射的に思い出した。雹による災害だ。それからいなごと暗闇、以上です」
「よろしい。そしてそれでもファラオはかたくなだったので、神は夜のうちにエジプトのすべての初子を撃つのだが、その日の夕方、小羊をほふってその血をしるしとして入口の二本の柱と鴨居につけた家だけは、初子を撃たずに過ぎ越された。この出来事を記念する過越の儀式や種入れぬパンのことは、今に至る重要な祭儀に関わっているから念入りに書いた。それから、昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれて進み、葦の海を渡るとき神が水を分けて道を作り、イスラエルをエジプトの軍勢から逃れさせたこと、これを知らない人はいないよね。たびたび不満を口にするイスラエルの民の有り様を書きながら、『これは何だ?』という意味の不思議な食べ物マナによって我々を養った神の恵みが身にしみたよ」
「天幕のことは書いてくれるの? 神と会うための会見の幕屋や契約の箱のことも?」
「後ろの方でたっぷり書くよ。幕屋の作り方や垂れ幕の向こうの至聖所と贖罪の座についてもね」
「よかった。とにかく詳しく書いてくれ。主の天幕は神殿の原型だから」
「もちろんだ。それが何百年先になろうと、レビ人が忠実に再現できるよう詳細に書くよ。金、銀、青銅やいろいろな色の糸、山羊の毛糸やあかね染の雄羊の皮、油、香料、宝石類はまあわかるけど、じゅごんの皮なんてどうやって手に入れたんだろうな」
「それが天幕に必要なら、どうやっても手に入れるさ」
メラリの言葉にアビエルも頷いた。それからアビエルは言った。
「さっきの話だけど、実はモーセの旅の道のりが、いまいち分からないんだよね」
メラリが答えた。
「そうだね。私もこのところ『民数記』を書くための資料にあたっているが、動きがよくわからないところがある。荒野放浪の辺りは資料に出てくる地名を残すけど、どうもカデシ・バルネアの後はホル山まで他の地名は見つからないようなんだ」
「ホル山ってアロンが死んだあの山だね」
「そう。ホル山に着いた時にはエジプトを出て四十年目ってことになっているから、カナンに入るまでの荒野放浪の期間は、他の資料と同じだ」
「そうだな。『出エジプト記』の資料でも、また、私が次に書く準備で調べている『申命記』の原本でも、その期間は四十年だ。だが、『申命記』の原本によると、どうもカデシ・バルネアからヨルダン川東岸までの移動の期間は三十八年だったようだ」
「ということは、アビエル、エジプトからカデシ・バルネアまでおよそ二年ってことか」
「そういうことだな」
「うーん、エジプトからシナイ山を経てカデシ・バルネアに来るまで二年というのは、大勢での移動でもあり、雲によって幕屋がとどめら
れもするから、まあ順当としても、不思議なのはその後、カナンまで三十八年かかっていることだ」
「何かあるんだろうが、それを解明するのは難しいんじゃないか?」
メラリの答えも同じだったが、それから旅の行程で思わぬ話が出た。
「旅路に関して、伝承としてはそれ以上辿れそうにないが、資料に当たっていて一つ収穫があった。モーセたちもエジオン・ゲベルに宿営してるんだ」
「あのソロモン王に巨万の富をもたらした港のある町か。そんな昔から交通の要所だったのだな。そこならじゅごんの皮だって手に入るんじゃないか?」
「おっ、そうだな。するとあとは…と、煙にくもるシナイ山で神が十戒を語る場面か。あの時、神に授与された戒めとおきては他にもあったよね」
「うん、授与された律法はとても詳細で多岐にわたるものだった。それらをモーセはことごとく書き記し、翌朝山のふもとに祭壇を築いて十二の柱を建てたこと、そして民とともに神と契約を結んだこと、この辺りは重要な場面だ。それに、アロンとその子たちを祭司として聖別する仕方もしっかり書いたし、燭台やともし火のこと、香を焚く祭壇や薫香の作り方もよし、と。あとはおおかたが会見の幕屋と契約の箱の詳細なんだが…」
メラリがアビエルに言った。
「その辺をまとめて書いてくれるなら、祭司の装束や任職についてもお願いしていいかい? 『レビ記』でも少しは触れるかもしれないけど、人の罪や汚れの清めについて、中心的に書くつもりだから」
「わかった。任職祭は大事だな。油注がれるのは王と祭司だものね」
それから、メラリは浮かぬ顔で口を開いた。
「問題は石の板だけど、前に話した時あれは十戒だってことになったよね。石の板を与えられた時、モーセは四十日間シナイ山にいたんだっけ?」
「そう。モーセは何度かシナイ山に登っているけれど、石の板を授かる時は四十日四十夜山にいた。二回目の時は断食もしている。でも、偶像禁止の戒めが書かれた石の板を持ってモーセが山を下りてきたら、よりによって民が金の子牛像を造っていた…」
「モーセが四十日も不在だったから不安になったんだろう」
「アロンも民に押し切られる形で金の子牛像を造ってしまう…。あーあ、ため息だね。まあ、神から授与されたものの中身を民は知らなかったからと考えることにするか」
アビエルは肩をすくめてみせ、話を続けた。
「で、怒ったモーセは石の板を叩き壊し、民にも罰が下った。結局、モーセはもう一度シナイ山に上って石の板に神の文字を書いてもらってくる。この辺りも、二回繰り返されたっていうのは意味ありげだ。何か訳があるんだろう」
「最後はどんなふうに終わるの?」
「モーセが戻って民が改心して、会見の幕屋を造るための献げ物を携えて来たことは書いておかないといけないな。そして、会衆皆で力を合わせて会見の幕屋を造り始めた」
「皆で? 最初の幕屋はレビ人が造ったわけじゃないんだな」
「うん。ユダ部族のホルの孫ベザレルがこういうことに長けていたんだ。モーセを通し神に名指しで召されている。ダン部族のアホリアブも共に中心的な役割を担った」
それからふとメラリが尋ねた。
「モーセの印象って変わった?」
「うーん、気が進まない大事業を託されて不安ながらも神に助けを乞いながら、だんだん強くなっていった気がする」
「でも実際、夥しい数の人がいるわけだから、モーセ一人ではどうにもならないよね」
「そうそう。舅のエテロがモーセの妻子を宿営に連れてきた時、モーセのあまりの多忙さに驚いて助言してるね。モーセは朝から晩まで民の間の揉め事を裁いていたから、神の定めと判決を知らせる務めで疲れ果てていた」
「ふーん。それで、民の中からしかるべき人を千人の長、百人の長などに立てたのか」
「あっ、モーセの印象で一つ大きく変わったのは、ファラオのもとに遣わされた頃は神が『わたしは必ずあなたと共にいる』と言っても不安でしかたなかったのに、カナンへ向かう前には、『もしあなた自身が一緒に行かれないならば、私たちをここから上らせないでください』と言っていることだね。この頃には、『神が共にあることがイスラエルを地の面にある諸々の民と異なるものにしている』ということを、
はっきり自覚している。とにかく神がモーセを選び、愛された。そういうことだ」
「記憶違いでなければ、モーセとアロンおよびその子たちと七十人の長老が、神を見て飲み食いしたっていう話を授業でやった気がするんだけど、そんなのなかった?」
「あるよ。祭壇を築き、十二の柱を建てた後ね。燔祭と酬恩祭を捧げて神と契約を結んだ時の話だ」
「覚えていたのは神を見て死ななかったから、へぇーって驚いたせいだ」
「だいたいは見ないようにするよね。モーセは何度も顔を隠しているし、神が通り過ぎる時モーセを岩の裂け目に入れて手でおおわれたこともある。ただ、人がその友と語るように、神がモーセと顔を合わせて語られたと書いてある資料もあったけどね。モーセはとにかく別格の存在、神と話した後は顔が照り輝いていたというから、すごいよね」
それからメラリは目を空中に漂わせて考えていたが、一つ思いついたというように口を開いた。
「あと、ヨシュアのことに触れておいた方がいいんじゃないか?」
「それそれ、ありがとう。『ヨシュア記』は私の担当だが、まだ先のような気がしていた。ところが、結構モーセと一緒に行動しているんだね。もちろん若い従者として。私が覚えているのは、モーセが石の板を授かる時、神の山ホレブへヨシュアも同行させたことだな。ヨシュアは山に登ってはいないが」
「私は、ヨシュアというとアマレクとの戦いとか十二部族連合との関連で思い出すが」
それからメラリは少し考えていたが、しばらくして言った。
「なあ、こういうことは考えられないか? エジプトからカナンまでは遠いと言えば遠いけど、移動できない距離じゃないよね。エジプトからの移住は幾度かあったんじゃないかな。いくつかの伝承が混じり合って今の出エジプト伝承になったとは考えられないだろうか。旅の行程がどうもはっきりしないのはそのせいなんじゃないかと思うんだ」
「可能性としては否定しないが、その推測を確かめる方法は思いつかない。さて、最後はモーセに率いられた民が会見の幕屋を覆う雲とともに進むという終わり方でいいかな?」
「わかった。さ、そろそろ書き始めるか。でないと、あとで『今日は一日中遊んでおったのか』って、アヒメレク様にどやされそうだ」
「じゃあメラリ、『レビ記』の方については明日教えてくれ」

 翌日、アビエルは昨日の話し合いをかいつまんでアヒメレクに報告し、最後にこう言ってメラリに話を振った。
「祭儀については、動物や穀物を焼いて神への心からの献げ物とする燔祭や、罪の贖いの罪祭、神との和解のための酬恩祭について、『出エジプト記』で触れることは触れるが、詳しくは『レビ記』で頼む。こっちはまだ少しかかりそうだが『レビ記』の方はもう終わりそうなの?」
メラリが答えた。
「それを一緒に確認してほしい。では、『レビ記』について説明していくよ。献げ物や供え物の祭儀についてはちゃんと詳しく書いた。捧げる人の立場や身分によって違った規定があるから、それぞれ正確にね。民の祭に関しては、春の祭から言うと、全会衆で行う聖なる集会としての過越の祭、続いて大麦の束を揺り動かす初穂の祭があり、それから七週後に小麦で作ったパンを捧げる七週の祭がある。秋はぶどうやオリーブの収穫時期だが、ラッパを吹き鳴らす記念の祭に始まって贖罪の祭、エジプトを出て仮庵に住んだことを覚える七日間の仮庵の祭についても、後ろの方に記したよ。この巻物だけ読み上げられる場合でもわかるようにね。それから他には、アロンの子たる祭司がしかるべき様式と手順に則って祭儀を取り仕切ることは強調しておいた。祭司は毎日燔祭を捧げなくてはならないし、燭火の番もある。お務めは大変だ。祭司の取り分についての規定も記した、と」
「祭儀についての詳細は書くべきことが盛り沢山だったと思うけど、よく知ってる事柄だから迷いはなかっただろう? アロンとその子たちの任職祭も書いたかい?」
「うん、あの任職祭の後大変なことになった話だね。アロンの子ナダブとアビフが規定に反する仕方で火を捧げたから焼かれてしまったという事件だ。だからアロンの子で残ったのはエレアザルとイタマルだけになった」
「清いものと清くないものの話も『レビ記』に入るんだったよね?」
「そう、そして清いことと清くないことについて。これは『レビ記』
の主題でもあるのだが、わかりにくいことも多くてね」
ここでメラリは話を切って、これまで黙って二人の会話を聞いていた老アヒメレクに質問した。
「アヒメレク様、この辺りはよく理解できないこともあったのですが、勝手に削ることもできないので資料を概ねそのまま書写しました。それでよいでしょうか?」
「それでよい。大事なことは父祖の言葉を間違いなく伝えることじゃ。自分にわからなくても、わかる人がいないとも限らんからな」
「確かにそうですね。次に進みます。年一回アロンによって行われる贖罪の日については、アロンは自分と家族のために罪祭の雄牛を捧げること、またイスラエル全会衆のためには二頭の山羊のうち一頭は罪祭とし、もう一頭は諸々の罪を担わせて荒野に放つことを記します。それから人倫に関する規定に入り、安息日など十戒のような戒めが続きます。人間の犯し得る罪が恐ろしいほどあからさまにされて、それを戒める律法が示される。記述に重複もある気がしますが、ともかく資料を落とさず書きます」
アビエルが言葉を差し挟んだ。
「十戒のようなというのはどういう意味?」
「古い資料があったからね、十戒のような完成形ではないけれど、『レビ記』の中に収めておくよ。それから、畑をすみずみまで刈り尽くしたりぶどうの実を取り尽くしてはならない、また落ち穂や落ちたぶどうの実を拾ってはならないという規定もここに入れる」
「それはいいね。メラリ、そこに『貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない』と、記しておいてくれ」
「もちろんだ。それは大事な戒めだから」
「完成形でなくても、ぜひ様々な律法を記しておいてほしい。別々に巻物が読まれる場合のためにね。私は『申命記』にも十戒を記すつもりだ」
「わかった。それで、『レビ記』は全体として話が『出エジプト記』の続きで荒野放浪中の場面だから、『わたしは、あなたがたをエジプトの国から導き出したあなたがたの神、主である』を、くどいほど繰り返しておきました。こんなところだったかな」
メラリが頭の中で思い巡らしていた時、アビエルが即座に言った。
「あと土地の権利に関することは大事だよね。いとこの懇願によって、
手放しかけた叔父の土地をエレミヤが買い戻したのは、この規定によるものだったのだから」
「その通りじゃ」
それまで静かに話を聞いていたアヒメレクが、カッと目を見開いて声を出した。
「エレミヤがそれを行ったのは、まさしくエルサレム陥落が間近に迫った頃じゃった。その土地は即バビロニアのものとなり二度と戻って来ぬかも知れぬのに、エレミヤは銀十七シケルでそれを買い取った。きっと彼はもっとずっと先を見ておるのじゃ。必ずこの地にイスラエルの支配が戻るとな」
話し出したアヒメレクの勢いは止まらなかった。
「ところがあろうことか、アナトテへ行こうとして捕まった。バビロン側に投降を図ったとの容疑で書記ヨナタンの家の獄屋に留め置かれるとは! エレミヤはエルサレム陥落後も、バビロン軍の侍衛長ネブザラダンの申し出を断って国にとどまった預言者ぞ。まったく腐ったいちじくのような奴らじゃ。結局、いとこハナメルや証人たちの前で証書が作成されたのは、獄屋から移された監視の庭だったのじゃ。
ゼデキヤもエレミヤの扱いには苦慮したことじゃろうが、まことに情けない王であった。六十も半ばを過ぎた預言者に毎日パン一つだけ届けさせ、生かしておくしかなかったとは」
アヒメレクの口調は怒りとも悲しみともつかないものだった。メラリが険しい顔でおずおずと尋ねた。
「あのう、アヒメレク様、アナトテの人たちによるエレミヤの暗殺計画があったというのは、本当なのですか?」
アヒメレクは高ぶった感情を静めながら話し出した。
「あれは大変じゃった。お前たちが生まれる数年前のことだったか…。故郷の人々に殺害計画がもちあがるほど憎まれるというのは、どれほどつらいことか」
「いったいなぜ?」
「エレミヤの手厳しい祭儀批判のせいじゃ。動物犠牲の祭儀は祭司一族にとっては、ずっと務めの重要な部分を占めていたのだから、無理もない。ヨシヤ王の改革以来、地方の聖所は先行きが厳しくなってきたことも、アナトテの人々を追い詰めていたのかもしれん」
「ヒルキヤ様はどうされていたのです? ヒルキヤ様ならその企てを止められたのでは?」
アヒメレクの顔が曇った。
「ヒルキヤはもう大祭司を退いておった。それに、わしの思い違いならよいのじゃが、どうもこの計画に一枚噛んでいたかも知れぬふしがある。エレミヤに対する祭司たちの憎悪は燃え上がっておったし、エレミヤは親族の、ひいては故郷の恥とみなされていたのじゃ。わしも何度かアナトテに赴いて説得を試みたが、彼らは聞く耳を持たなかった。幸い、エレミヤが殺されることはなかったが…」
アビエルの気持ちは沈んだ。いたたまれなかった。
「孤立無援だったのですね」
「確かに、祭司たちからも、他の多くの預言者たちからも、民衆からも怒りの矛先が向けられていた。だが、エレミヤを助けた者は皆無だったわけではない。たとえば、書記バルクは神殿への出入りを禁止されていたエレミヤに代わって、神殿の庭に面したゲマリヤの部屋から口述筆記した巻物を読み上げた。断食の日で多くの会衆が集っておったな」
「バルクは政府高官の書記ネリヤの子でしょう? そんな人がなぜ?」
「バビロニアによるエルサレム陥落の日が近いと感じて、何かせずにはいられなかったのじゃろう。あれはエホヤキム王の第五年のことじゃった。バルクが神殿の庭にいる民衆にそれを読み上げると、王宮の書記官の部屋に勢ぞろいしていた高官たちはその内容に震え上がった。だが、王のもとに届けられた巻物が読み上げられるやいなや、王はそれを小刀で少しずつ切り取って暖炉ですべて焼いた。悔い改めの最後の機会を自ら捨てたのじゃ。巻物を焼いても、神からの預言を焼き捨てることはできぬのに」
アヒメレクはその日をまざまざと思い出すかのように語った。
「しかし、バルクとエレミヤの身を案じた高官らが彼らを逃がしたところをみると、彼らにはエレミヤの預言の確かさがわかっていたのであろう。国の災いを願ったといって監視の庭にある泥の穴に投げ込まれた時もそうじゃ。ゼデキヤ王に救出を進言したのは王家の宦官でクシュ人のエベデメレクだ。イスラエルの民でなくともわかる者にはわかっておったのじゃ。わしらが神殿の地下室で息をひそめていたあの日も、エレミヤは監視の庭にいたはずじゃ。お前たちとマヘリのところに帰ってからすぐ行ってみたが、もうそこにはおらんかった。エレミヤは今頃エジプトか、生きておればよいが」

 急に話が現実につながり、しばし言葉が止んだ後、メラリが口を開いた。
「では『レビ記』の最後に、おのおのが先祖伝来の土地に帰れるという願いを込めて、ヨベルの年の規定を入れるようにします」
「ヨベルの年って、七年に一度畑に種を蒔いてはならず、ぶどうの枝を刈り込んではならないという安息の年が、七回巡った五十年目の年のこと? その年の七月十日がその宣言の日? 合ってるか、メラリ?」
「ああ、五十年目の贖罪の日だ。ラッパを吹き鳴らしてすべての民に自由を触れ示す。そもそも土地は永代の所有で売ってはならないものだけど、売ってしまった場合にはできるだけ買い戻さねばならない。相手も買い戻しに応じなければいけない。買い戻しは本人が無理なら近親者が行う。そうすれば所有の地に帰れるからね。どうしても買い戻すことができないとしても、ヨベルの年には戻されて皆所有の地に帰ることができる。次のヨベルの年はいつになるんだろう」
「何よりバビロニアの支配から解放される日が、私たちのヨベルの年ではないか。夢物語だろうか」
「いや、エレミヤの預言では七十年と言ったか、ともかく神がそう言っている以上、それは必ず実現するのだ。そうして捕囚となってバビロンに連れて行かれた者たちも、みな所有の地へと帰ってくる…」
「メラリ、ヨベルの年って何のためにあるのだと思う?」
「隣人であれ、他の人々であれ、『あなた自身のように愛さなければならない』という律法を、身をもって現実のものにするためじゃないの? あらゆる律法の根底にあるのはそれだけだと思う」
アビエルはメラリの言葉をかみしめた。やっぱりメラリだ。彼に任せておけば大丈夫だと、アビエルは思った。
「じゃあメラリ、こっちの『出エジプト記』はまだ暫くかかるから、『レビ記』が終わったら、先に『民数記』に着手しておいてくれ」
「了解」



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 第4章へ続く








































































































































出エジプト1章





































出エジプト3章








































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出エジプト2:1〜10




















サム上1:21〜24






出エジプト2:11〜14







出エジプト2:15









































出エジプト7:8〜10:29









出エジプト11:14〜13:10





出エジプト14:16〜17




出エジプト16:15、16:31




出エジプト25:8〜27:21







出エジプト25:3〜6












民数記20:22
民数記33:1〜38








出エジプト16:35
申命記2:14



















民数記33:35






出エジプト19:18〜24:8








出エジプト28章〜30章
















出エジプト24:18



出エジプト34:28
出エジプト32:4









出エジプト32:19







出エジプト35章〜39章





出エジプト31:1〜6
出エジプト35:30〜35











出エジプト18:1〜3
出エジプト18:13〜27











出エジプト33:15







出エジプト24:9〜11










出エジプト33:22
出エジプト33:11


出エジプト34:35









出エジプト24:13


出エジプト17:8〜13













出エジプト40:36〜38










出エジプト20:24、30:10






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レビ記6:8〜30

レビ記24:2〜4



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レビ記19:9〜10





















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エレミヤ32:1〜2
エレミヤ32:6〜15






エレミヤ37:11〜15



エレミヤ40:1〜6




エレミヤ37:16:〜21






エレミヤ11:21









エレミヤ6:20






















エレミヤ26:8

エレミヤ36:4〜8








エレミヤ36:9〜25













エレミヤ38:1〜13

















レビ記25章






















レビ記19:18、19:33




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