第4章


 その朝、アビエルは一番乗りだった。朝の地下室の張りつめた空気がアビエルは好きだった。中央の大机に広げられた古い書の匂い、壁にそって置かれた数脚の小さな机と椅子…。きっとここは神殿ができて以来、誰かの手によってずっと執筆作業が行われてきた場所なのだ。王宮には数多くの書記官たちがいて、行政に関わる文書は無論のこと、王朝史や年代記も編纂されていたことだろう。それらはすべて灰になった。だが、ここは外界と隔絶した空間なのだ。そんな感懐を抱きながらあらためて地下室を眺めていると、メラリが降りて来た。

 少し前からメラリは『民数記』の編集にかかっていた。アビエルとメラリは内心急いでいた。老アヒメレクもやはり寄る年波には勝てないようで、昔の迫力はなくなってきている。アヒメレクに何かあれば、全体を見渡して意見してくれる者はもういないのだ。それに第一の書についてのアヒメレクの考えをまだお聞きしていない。急がねば…。二人とも馬力をかけて書いていった。
 或る朝の打ち合わせの時だった。時間になってもアヒメレクは地下室に姿を現さなかった。二人は打ち合わせを始めたが、二人だけだと気が緩んでどうしてもざっくばらんな話になってしまう。
「メラリ、悪いけどこの前少し教えてもらった『民数記』の概要をもう一度聞かせてもらえないかな。ちょっと考えてることがあって」
「お安い御用だ」
メラリが話し出した。
「『民数記』はモーセとアロンおよび部族ごとの長による人口調査の記録から始め、同じ形式の文を十二回繰り返す形になるから長くて煩雑だけど、これはまあ根気の問題。あかしの幕屋とその祭祀用具の管理をするレビ人は部族の数に数えてはいけないと明記して、と。それからレビの子の各氏族の司すなわちゲルション、コハテ、メラリの宿営の場所および会見の幕屋における祭具や職務の責任分担について書く。私と同名の父祖が出てくるからおのずと力が入ったな。ずっと学んできて身についたことの総まとめでもある。それから、死人や罪を犯した人が出た場合の様々な対処法、ナジル人の請願を立てる者の規定もここに書いておく。そして再び十二部族それぞれの神への献げ物の目録を繰り返し…。まとめて書けたら楽だけどそういう訳にもいかないしな」
「真面目に頼むよ、メラリ。神がアロンに仕えるレビ人を聖別されたのだぞ。その清めについても書いたかい?」
「もちろん書いたよ。それにレビ人は五十歳を越えたら務めの働きを退く規定もね。務めを手助けすることはできるけど。そのあと過越の祭の際の規定が詳しく入り、幕屋を導いたりとどめたりする雲のことを記して、移動する時の様子も書いておいた。ラッパの合図の取り決めの記述も忘れなかったし」
「そのあとの話は、結局のところ、旅路における不満や愚痴、さらには謀反を起こす民の情けない態度とそれをまとめる指導者の苦労や苦悩についてと言えるよね」
「そうなんだ。民が神に対して不平をつぶやくので、神の怒りが火となって宿営の端を焼いたり、エジプトでの奴隷としての大変な暮らしを忘れて、『肉が食べたい』と訴えたらうずらが飛んできたキブロテ・ハッタワでの出来事とかね」
「うずらの話は私も『出エジプト記』に書いたが、『民数記』には欲心から疫病が起こったあの『貪欲の墓』事件まで記すのか。でもまあ、確かに宿営での生活は水や食べ物が得られないとか、メラでのように水が苦いというのも大変な問題ではあるが、やはり人間の間の問題が大きいよね。コラたちの反乱のところは書きにくくないかい? よりによってレビ族の話だしね」
「いや、だからこそきっちり書いておきたい。なあ、アビエル、今さらへんな質問だけど、モーセとアロンって本当にレビ族なのかな?」
「どうして?」
「『アロンにレビ人を与える』という言葉もあったし、なんかアロンたちはレビとは切り離された別個の存在って感じがする。家系図ではレビ、コハテ、アムラムときて、それからアロンとモーセだろ? かなりあとの子孫ってことだ」
「そのことか。一番ぎょっとするのは、モーセが十二部族の各司たちから杖を持ってこさせて、会見の幕屋のあかしの箱の前に置いた時の話じゃない?」
「次の日、アロンの杖から芽が出て花が咲き、アメンドウの実を結んでいたっていう話だろう? 神がアロンを選んだっていう当たり前のことじゃないか?」
「問題は、『レビの杖にはアロンの名を書き記しなさい』っていう部分さ。杖と部族は同じ単語だから、ここでアロンがレビ族に接合されたってことだ。つまりそれまではそうではなかった。いずれにしてもあのへんの資料は錯綜してるよね。まあ、それ以上遡れないのだから仕方ない。それより、モーセとアロンは本当に兄弟なのかってことの方が私は気になるね」
「わかる。兄弟としての逸話がないし、なんかよそよそしいものね。別系統の伝承が混ざった結果かもしれない。今となってはわからないな。肝心なのは、二人が兄弟だということはもう誰も否定できない事実となってしまっているということだ。アビエル、コラたちの反乱の話に戻るけど、あれは結構根が深い問題だな。その前段として、身内からもモーセが羨望され不満の原因になっていた話がある」
「ああ、兄のアロンと妹のミリアムか。二人はモーセがクシュの女性を妻にしていることで彼を非難していたように見えるが、それはどちらかというと瑣末なことで、本当は神の言葉を取り次ぐ権能がモーセだけに与えられていることが不満だったのだろう。『主はただモーセによって語られるのか。我々によっても語られるのではないのか』と言っているからね」
「でも神が直接語るのはモーセだけだというのがその時の神の答えで、その怒りでミリアムが重い病を発症し、宿営の外に隔離されるという大変な事態になった」
「確か、モーセのとりなしでなんとか八日目には皆と一緒に出発できる状態になったんだったな、メラリ?」
「その通りだ。でもこれに関して言うと、七十人の長老たちや他にも二人の者が預言をする話が出てくるから、預言自体を否定しているわけではないようだ。それが神の与える霊から来たものかどうかが問題にされているのだと思う。だが、レビ族のコラとルベン族の三人を中心とする反乱はそんなものじゃない。他に会衆から選ばれて司となっていた者二百五十人と共にモーセに逆らったというのだから。その主張は『会衆は皆、主がともにおられる聖なるものなのに、その会衆の上に立つとは分を越えることだ』というものだった」
「コラたちはモーセの指図が気に入らなかったのだろうが、民衆の示すあのおかしな平等意識はいつだって時々見られるものだね」
「まったく救いがたい。モーセがどんなに偉大な指導者でも悩んだり弱音を吐いたりするという意味では普通の人間だし、負いきれない重荷を神に嘆いて、長老たち七十人と一緒に対処することを許されたりしている。でも一方でモーセが神の言葉を取り次ぐ権能を持っているのも間違いない事実。だからといって決して神格化されるなんてことはない。このへんの兼ね合いが難しい。結局、コラの一族はその天幕の前で口を開いた地に飲み込まれ、薫香を供えていた二百五十人も火によって焼き滅ぼされた。それだけじゃない。そのことでモーセとアロンを責めた会衆の間で疫病も起こって大勢が死ぬという前代未聞の大惨事になってしまった」
「途轍もない神の怒りの結果だ。世代交代も関係しているのだろうが、なんだか老アヒメレクとモーセが重なってしまって、この事件は気の毒と言うか悲しいと言うか…。モーセもあれは身に堪えたんじゃないかな」
「アヒメレク様に対して反抗的な態度をとるなんて考えられないよ、アビエル。なんとか老アヒメレクがお元気なうちにこれらの書物を完成させないとね。せめてもの恩返しだ。終わりの方にバラムの話をおくけど、人間よりものが見えてるしゃべるろばとか、呪いを依頼したのに祝福になってしまって怒るモアブの王バラクとか、ああいう話は個人的には好きだな。でもその後、ペオルのバアル事件でまた疫病が起きて、コラたちの反乱の時より多い死者が出る」
「あれはもってのほかだよね。モアブの娘たちが自分たちの神々に犠牲を捧げる時、一緒に食事して彼女らの神々を拝んだというのだから。律法によって私たちが口にできるものは決まっているのだから、異教徒と食事を共にすることはそもそもできない。これをしてしまうと、結局この事件のように異教の神々を拝むところへ行きついてしまう」
「ほかにエドムと、その後にモアブというかアモリ人の王シホンから領土を通らせてもらう許可がもらえなかった話を入れて、と。相当古い話で前後をつなぐのは難しそうだけど、最後に十二部族の系譜とか祭儀の行い方を強調して、『民数記』は終わりでいいかな?」
「あ、ちょっと待って。男子の継承者がいない場合、つまり子供が娘ばかりの場合のことを書いておいた方がよくないか? これも受け継ぐべき掟となったのだから」
「ヨセフの子孫の氏族、ゼロペハデの娘たちのことか。もちろん女性も嗣業を継承できるが、彼女たちが他の部族に嫁ぐとその部族に土地が加えられてしまい、嗣業が別の部族に移ってしまう。これを防ぐため、そのような場合には同部族にのみ嫁ぐようモーセが決裁したのだ。イスラエルの人々がおのおのその父祖の部族の嗣業を堅く保つことが重要だったからね。それぞれの部族が受け継ぐカナンの土地については、そっちの『ヨシュア記』でまとめて書いてもらうつもりだったけど、土地の話が出たから『民数記』でも少しだけ触れておくね。実際この頃には、ルベン族とガド族はもうヨルダン川の東岸に土地を得ているようでもあるし」
「彼らは家畜の群れが多かったから、あの辺りが順当なところだろう。この頃の宿営はエリコに近いヨルダン東岸のモアブの平野だったしね。『他の部族がヨルダン川を越えて戦いに行くのに、ここに座っているつもりか』ってモーセに一喝されたよね。メラリ、土地のことを書く前に気になってることがあるんだけど、なぜイスラエルはミデアンを討ったのかってこと」
「ああ、それ、やっぱり書かなきゃだめか。ミデアンはモーセにとって舅の属する民だから、私も頭が痛かったんだ。ただ攻めただけじゃなく、ほぼ全滅させて女子供は捕虜というところまで苛烈だった。例のバアル事件に関わっていたからだろうか。あの時イスラエルに疫病をもたらしたミデアンの娘の父ツルは、この時殺された王の一人だ」
「いずれにしても、イスラエルを主なる神から引き離そうとする力を撃ったということだな。あとは土地のことでもう一つ。領地を分ける時に、実際にはまだ手に入ったわけじゃないけど、レビ人が住むように与えられた土地があったよね。それも書いてほしい。『ヨシュア記』でも書き記すつもりだけど、念のためにね」
「となると、逃れの町についてもここで書く必要があるな。まずレビ人に与えられたのは逃れの町とされていたから。逃れの町は六つだったっけ? レビ人に与えられた町とその放牧地が四十八なのは覚えているんだが」
「メラリ、それ全部言える?」
「お前は言えるのか、アビエル?」
「古い記憶を引っ張り出さないと」
「私もアヒメレク様がいないと思い出せない」
「ともかく逃れの地はあやまって人を殺した者が逃れる地だ」
「そもそもどうしてこんな町が置かれたんだ?」
「裁判で判決が出る前に仇を討つ者の手にかかって死なないようにするためだ。故意の場合は問題外、授業でやっただろう。過って人を殺した者は町の門で長老たちに訳を述べて入れてもらう。大祭司が死ぬまではその町に住むことになってたはずだ」
「逃れの町として私が覚えているのは、シケム、ヘブロン、ラモテ・ギレアデの三つだ」
「ラモテ・ギレアデか。アハブ王がアラムと戦って死んだ場所だな。変装して戦いに出たが、思いがけず射抜かれた傷が元で死んだ。その前にミカヤの痛快な預言があったな。巻き込まれたユダのヨシャパテ王は気の毒だったが、王らしからぬ狼狽ぶりを示して難を逃れた。いずれにせよ、無意味な戦いだった。この辺りはお前が書くんだったな、メラリ」
「『列王記』までまだまだ遠いな。ああ、今朝はずいぶん話してしまった。そろそろ書き始めよう。そっちは『出エジプト記』終わって『申命記』に入るところだね。どう書くつもりか明日教えてくれ」

 次の日、アビエルは『申命記』の構成について考えたことをメラリに話し始めた。だが、その口は重かった。
「『申命記』の中心は父祖の書いた原本になるのは確かだけど、それ自体様々な要素を含んでいてね、一筋縄じゃいかない気がする。内容の骨格は大体がモーセの語りかけや説教なのだけれど、すぐ気づくのは語り手が一定していないこと。それだけでも『申命記』の原本がかなり古い様々な資料断片の組み合わせなのだなと、そこまではわかったんだけど・・」
そのままアビエルは黙ってしまった。いつものアビエルではないなと、メラリは尋ねた。
「何か迷ってるの?」
「うん、しっくりこないんだ。今さらエジプトを恋しがる民の声を聞いても距離を感じるだけだろう? あのマッサにしろ、メリバにしろ、『試み』あるいは『争い』の水の話でも、そのせいでモーセとアロンがカナンに入れなくなったというのもやりきれない。どうしたって悪いのは不平ばかり言う民の方じゃないか? だから、そういうことをそのまま記してよいのかと悩んでいる。それが今の私たちの救いにつながるのか、と。いやそれよりももっと悩んでいるのは、律法部分に関することだ。律法がなければ神に従う生き方はできない…、それは間違いのないことだ。だが、『申命記』の原本にあるものは必ずしも今の現状に合っていない。いや、すでにずっと前から現状に合っていなかったと言えるものも確かにある」
アビエルはメラリから視線をはずして机上の巻物を眺めていた。神がモーセを通して語った言葉を変えてはならないと一方では思う。だが自分たちがこの状況で、律法から外れていると自覚したまま生きてよいものだろうか…。アビエルを見ていたメラリがつぶやいた。
「ぶどう畑の仮小屋、きゅうり畑の番小屋か」
「何、それ?」
アビエルが訊いた。
「私たちのことだ。収穫時に数日間だけ置かれる見張り小屋のように、エルサレムは包囲された町として、ポツンと残った、と」
「誰の言葉だ?」
「イザヤだ。セナケリブに四十六の要塞の町を奪われ、包囲された時のな」
「憐れな比喩だが、まだ国はあった」
「アビエル、一度訊いておきたかったんだけど、王国がこんなことになってしまって神なんか本当はいないんだとか、もう我々を見捨てたんだとか思ったことある?」
「ないよ。メラリはあるの?」
「よかった。私もないんだ。それどころか不思議なんだが、こうなって初めて神の存在を近くに感じるようになった。国の滅亡と神殿の喪失はやむを得ないことだったということを最近ひしひしと感じる」
メラリの言葉はアビエルの胸にゆっくり染みていった。
「私もだ。イスラエル民族の軌跡を書き記すようになって毎日感じることは、私たちがしてきたことを考えたら国の滅亡はしかたがないことだったというにべもない結論だ。本当に、まったく神をないがしろにした歩みだった。誤解しないでほしいのだが、もちろんこうなってよかったとは口が裂けても言えないし、こうなる前に気づいて避けられたらそれが一番よかったけれど」
「だったらそのことを『申命記』に書け」
「うん、それは書くよ。だけどね、メラリ、一方で別の感情も湧いてくる。このところずっとエジプトを出てからのイスラエルの歴史を何度もたどっているのだが、不思議なことに深い恵みに満たされてくるのだ。苦しい、情けない、恥ずかしい…憐れな歩みだったが、それでも神の御手の中にあったのだと、はっきりと感じる。言ってることわかる?」
「すごくわかる」
「神が日ごとに与えたあの不思議な食べ物マナのことを、最近よく考える。あれは確かに食物でもあったけど、神の言葉でもあったのではないかと。人はパンだけでは生きず、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのだから」
「違いない。思った通りに書け」
「ありがとう。与えられた恵みの中で祭司として私が今できることは、この『申命記』をしっかりまとめることだ。メラリのおかげで気持ちの整理がついた」
「それはよかった。で、どう書くつもりだ?」
メラリの冷静な表情に、アビエルも落ち着いて話し始めた。
「『申命記』は、物語部分は『民数記』と、契約の書の辺りは『出エジプト記』とかなりの程度重なるのだけれど、原本そのままじゃなくて少し手を入れたい」
「もちろんだ。伝えられた伝承はすでに書として残した。だから、私たちの書いたものをよく聞けば、あるいはよく読めば、私たちが真剣に今を生きようとしたということが必ずわかる。時が移ろえば、制度も変わり、暮らしも変わる。国が滅びそれでも残っている民が今必要とする言葉を、今書かなくてどうする。今伝えなくてどうする」
メラリの真剣な表情をアビエルは真正面から見た。ありがたかった。それから照れ隠しに言った。
「お前、なんだか預言者みたいだな」
憮然とした表情のメラリを見て、アビエルは少し笑って言った。
「一番大事なのはモーセの説教のところだ。エジプトを出てから荒野を放浪する場面の回想に手を入れて、モーセが民に向かってする長い説教にしようと思う。これはカナン侵入前に民を激励する言葉でもあるけれど、もっと言えば、今現在失意のどん底にある民に向かって語る言葉にしたい。我々が行った大いなる過ちと罪を認めてその結果を受け止め、尚かつ悔い改めて神の憐れみを請うこと。王国とエルサレム神殿の復興があるとしたらその先にしかあり得ないことを、モーセの口をもって語らせたい」
「それがいい、決まりだな」
「メラリのお墨付きをもらったからこれで進めていける」
「アヒメレク様の、でなくていいのか?」
アビエルは目で笑って、それからいつもの口調で滑らかに話し出した。
「内容の構成は、まずこれまでの歩みを振り返り、律法の朗読から契約を結ぶ場面になり、それから祝福と呪いへと続けるつもりだ」
「いいだろう。民の集まる祭の聖なる集会で読み上げるには、その順がいい。中身で手を入れるのはどの部分?」
「まず、契約の書にあった律法のうち、六年間種を蒔いて作物を取り入れた畑を七年目に休ませるという掟だが、これは変える必要がある。この規定は、元来、農耕地が神の所有であることを示す掟だが、そのため耕さずにおかれた畑から貧しい者が食べることができた。でも今ではこれは現実的ではないよね。貧しい者は食物やお金を借りたり、持ち物を質に入れたりしなければ生きられないから。だからこの規定は、七年の終わりごとに貸主が借財を許すという規定に変えねばならないだろう。隣人や同胞に督促してはならない、とね」
「そうだな。それから?」
「それから、債務により奴隷となった者の解放に関する規定だね。たとえば六年働いた奴隷を七年目に解放する時、無償で自由の身として去らせるという掟だけど、これはないよ。かつてエジプトからあがない出された時を思い起こし、『家畜や麦や酒を持たせるように』と変えないと。男の奴隷だけじゃなく女の奴隷も同じように解放する。それと、モーセの頃は民の長を立てて裁判をしていたけれど、今では町ごとに裁判をしてそれでも裁きかねる案件は、他の定められた裁判の場所でレビ人祭司も加わって裁いている」
「まあそうだな。聞くところでは賄賂を取って悪人に便宜を図っているとんでもない裁判官もいるらしい。サムエルの時代から変わらないな。ほかには?」
「やはり、王に関することだな。これも少しは規定しておく必要があるだろう」
「この上まだ王をいただく日が来ると言うのか?」
「その時のためにだ。王は神が選んだ人でなければいけない。そうだ、民と引き換えにエジプトの馬を手に入れること、多くの妻を持ったり金銀財宝をため込むこと、こういったことを諌めておこう」
「誰のことかすぐわかるな。アビエル、そんなこと書いていいのか?」
「それだけじゃない。何より王にとって一番大事なことは律法に則って統治することだから、原本からこの律法を書き写し、常に自分のもとに置いて朗唱するようにと書くことにしよう」
「なんだか暴走している気がするが、ここまできたら毒を食らわば皿までだ。アビエル、契約の書には無かった事項なのだが、戦争に関わる規定は入れなければならないんじゃないのか?」
「考えてなかったけど、なるほどね。家を建ててまだ主に捧げる前に、あるいはぶどう畑を作ってまだ収穫していないうちに戦争に出てはいけないな。それは災いの元となるし、戦死してそれらを別な人に奪われてしまったのでは、残された寡婦と子供は生きるすべを失うからね。これは明記しておく必要がある」
「この際、戦い方の詳細も含めて、戦争に付随して起こる事柄について書いておいたらどうだい?」
「わかった、そうする。あとは、律法の学びとその受け渡しに関することを書いておきたいんだ。これは子供の教育はもちろん、大人にとっても大事なことだよ。国の統治はいつ我々の手に戻るのか、戻るかどうかもわからない状態で、それでも神の支配を信じて生きるには、祭司だけでなく誰でも律法をよく知る必要がある。おそらく捕囚の地においても、他の何が変わっても神を信じて礼拝する生活は変わっていないはずだ。それだけが我々を我々たらしめているのだから。だからこれだけは、子子孫孫なんとしても受け渡していかなければならない」
「そうだな。私たちにはいつでもアヒメレク様がいた。なんと恵まれた場に置かれていたことか。子供たちはこれからますます、日々家庭で学ぶことが大切になるね。そうだ、こんなのどうかな。『あなたがたは律法を子供たちに教え、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、それについて語らなければならない』とかね」
「ははっ、言ってくれるじゃないか、メラリ。でも、私たちはほぼそんな状態だったね。そのくらいの気構えで記しておくか。結局は子供たちのためなのだから。神の命じるすべての言葉を心におさめ、この律法を守り行うことこそが、人生において何が起ころうと、平安のうちに歩むすべを子供たちに得させるのだ」
アビエルとメラリはお互いの顔を見た。いつの間にか次の世代のことを案ずる年齢になっていたのだ。それからアビエルは考えあぐねていたことを口にした。
「メラリ、まだ一番大きな問題が残っている。北イスラエル王国が滅んでから流入した民の状況を見れば、やはり地方の聖所をこのままにしておくわけにはいかないだろう」
「よく言った、アビエル。お前が言わなければこっちから言おうと思ってた。聖所を定められたところに集約して、正しい仕方で祭儀ができるとよいのだが、そのためにはレビ人祭司の処遇と食肉の規定は切実な事項だ。そうだろう?」
「それを考えるとなかなか言い出せなかったんだ。だが、もうこの問題に手をつけるしかない。祭司が捕囚されてエルサレムでも人材が払底しているのだから、むしろこれを好機として、移住が可能なレビ人を呼び集めてはどうだろう。彼らは自分の職務には通じているから、忠実に務めを果たしてくれるはずだ」
「アビエル、私は時々考えていたのだが、ヨシヤ王の改革がはかばかしい成果をあげられなかったのは、やはり祭司に甘さがあったのだ。そのことから目を逸らしてはいけない。殊にエルサレム由来の祭司たちは、エブス人として土着の風習を捨てきれなかったんじゃないか?」
「現状に至った原因として、祭司に関わる点も取り上げるべきだという指摘は、まさにその通りだ。とりわけエブス人祭司がそうだというのは疑問だがね。ヨシヤ王以前の神殿には、バアルやアシラや天の万象のために作った祭具類があったと言うし、エルサレム周辺の高台で香を焚いてカナン式の礼拝をする祭司もいたのだ。だから、歴代の王や民にだけ責任を負わせるのは片手落ちだ。これは祭司一人一人の問題でもある」
「だがアビエル、地方の聖所を徐々に縮小していくとすると、動物供犠の祭祀と食肉の規定を切り離すしかない。動物を屠るたびに遠くまで携えて行くことはできないからね」
「とすると、神に捧げる燔祭や誓願および自発の献げ物以外は、主がその名を置くために選ばれる場所に行かなくてもよいとするしかない。定められた方法により好きなだけ肉を食べてよいと。これしかないんじゃないか?」
「それは大胆な変更になるな。贖罪の献げ物はどうする?」
「そこまでは無理だろう。私たちは皆知らずして罪を犯してしまう存在なのだから。ただ年に三度、主がその名を置く定められた場所で、主の前に献げ物を持って出なければならないとすべきだ。つまり、まず何と言っても過越の祭、これは後に種入れぬパンの祭が続くけど。それから、七週の祭と、仮庵の祭の時だね」
「農作物の収穫感謝はどういう形にする? 穀物、ぶどう酒、油の十分の一と、牛及び羊の初子を献納する時のことだが」
「これはもう、言わばヤコブの時代の誓いにまで遡る、神への献げ物だからね、やはり主がその名を置く場所に携えて行かねばならない」
「でも、遠く離れた場所にいて携え行くのが無理ならば、作物をいったん金に換えて持って行き、現地で好きな物に換えることになるだろうな」
「いずれにせよ、主の御前で家族と共に食べ、喜び祝うということだ。だが、皆が一つの場所に集まって来るとなると、焼いて捧げるのは数量的に難しいな。大鍋で煮て食べることになるか…。それに、牛を携えて来る者もいるのだから、犠牲の献げ物として屠るのは、羊だけじゃなく牛も加えなければならないね」
「あとは、アビエル、もし食事の規定が清めの祭儀と切り離されるとすると、『レビ記』ではその身に汚れがある人は和解の献げ物を食べるのを禁じられていたけれど、これは汚れた人も食べてよいことにしないといけないよね?」
「そうなるな。それから、メラリ、これは大事なことだが、今後ますます、殊に地方のレビ人への配慮が必要になる。中央聖所で彼らがその取り分を受け取るだけでなく、それぞれの町においても彼らを保護しないと。定められた仕方で牛や羊を屠る務めをしているのだからね。せめて三年ごとに、それぞれ町の内に蓄えた収穫物で彼らを労うことが必要だろう。そうでないと、場合によっては寄る辺なき寄留者や孤児及び寡婦のように、零落して生活が窮乏することだってあり得るから」
「大変なご時世だな。なんとしても、それぞれの町の内で彼らの生活が守られなければならない。アビエル、『レビ人を捨ててはならない』と明記してくれ」
「こうしてみると、思ってた以上に手を入れることになるな。これだけ変えるとなると私たちの一存ではできない。アヒメレク翁にお聞きしないと」
「そうだな。ところで、アビエル、十戒のところはどうするつもりだ?」
「うーん、まあ『出エジプト記』とほぼ同じでいいかなと思うんだけど、安息日のところは理由を付さずにただ『何のわざもしてはならない』と書くつもりだ。主の安息なのだ。エジプトから我々をここまで導いてきた神の恵みを静かにかみしめればよい。メラリ、ちょっと真面目な話をするけど聞いてくれ。私が今心から願うことは、この世に生きながらえる限り神の言葉に従い、神の御旨を常に問いながら生きていきたいということなのだ。その都度与えられる恵みを数えながらね。実際、今私は神の戒めと恵みをとても近く感じるのだ」
「同感だな。話してくれてありがとう」
「なんだか照れるね」
「アビエル、前にアヒメレク様が石の板のことを『あれは十戒だよ』と言った意味が今はわかる気がするよ。ただやはり好奇心は抑えられない。同じ答えだといいんだがな」
「何? 言ってみて」
「アビエル、今後二度とこの話はしないから教えてくれ。お前は、石の板には何が書かれていたと思う?」
「じゃあ言うよ。あれは十二部族連合の結成の証だろう。だって石の板に書いてあったのなら長い律法は無理じゃないか。契約は契約でも神との契約じゃなくて、部族同士の契約だ。でなけりゃ、偶像の禁止や安息日の遵守規定がこれほどまで無造作に何度も破られてきたはずがない。一枚の板には部族連合の掟、もう一枚の板には十二部族の名前、そんなところだろう。どう?」
「よかった、同じ答えで」
「だが、ここでもまた契約の箱のことが引っ掛かる。資料からは、石の板二枚を持って山に登る前にモーセがアカシア材で作ったように読み取れるけど、これは端折った書き方として、まあそのままでいいか。詳しくは『出エジプト記』に書いたし。たぶんアヒメレク翁も異論はないと思うのだが」
「アヒメレク様はその辺の事情は百もご承知だろう」
「あ、そうそう、メラリ、この前『民数記』のところで、モーセ一行がエジオン・ゲベルに宿泊したっていう話を聞いたけど、面白いことに『申命記』の資料ではそこを離れて進んだことになってる」
「この件に関していえば、『離れて』の方がよかったかもしれないな」
「どうして?」
「だって、エジオン・ゲベルはソロモンの栄華の象徴だろう。そんなものから離れていた方がよかったんじゃないか? ま、いずれにしても、何かあの辺りであったんだな。エジオン・ゲベル近辺を通ったことは間違いない」
「そうなるね。でも、おかしいよね。普通は『誰それがこれこれした』という言説と『誰それがこれこれしなかった』という言説があれば、どちらかが本当でどちらかが嘘って考えるけど、伝承の場合は逆にその史実性が高まるのだから」
「事実起こった事は傍から見れば見る人によって見え方が違うし、まるで正反対のような話も派生するけど、元が作り話だとそうはならないからね」
「つじつまが合わなくてもそのまま編集する、これを曲げてはいけないな。いずれにしても、この書は今まで書いてきた書の一定の区切りとして、全部をまとめるつもりで、巧くつながるようにしたいと思っている」
話が終わりかけた時、思い出したようにメラリが言った。
「あと、預言者のことに触れておいたら? モーセの時代は預言者は彼一人だと言っていいけれど、その後にもサムエル、エリヤ、エリシャほか、幾人かの預言者は出たから」
アビエルはずばりと指摘した。
「お前が言いたいのはそういうことじゃないだろう。近年見過ごすことのできない預言者たちのことだな。わかった。まさに今、偽預言者も跋扈している状況だからそういう輩のことに触れておくよ。私だって真の預言者の重要性はちゃんと認めているんだから」
長い会話を終わらせたのはメラリだった。
「よし、それぞれの仕事にかかろう」

 その日の読み合わせで、アビエルは『申命記』の構想についてアヒメレクに語った。特に大幅に手を入れる点について詳しく述べ、「このようにしたいのですが、いかがでしょうか?」と、緊張して尋ねた。アヒメレクの答えは簡潔だった。
「それでよい」




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 第5章へ続く











































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申命記14:22〜26











申命記16:7
申命記16:2





申命記12:15、22








申命記14:28〜29





申命記12:19、14:27










申命記5:12〜15








申命記30:11〜16

































申命記2:8





































申命記13:1〜3











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