第5章



 最初の書を書き始めてから七たび春がめぐった。編集作業は後半戦に入った。アビエルは『ヨシュア記』を、メラリが『士師記』を書くのだ。アヒメレクはもう八十歳を越えていたから朝の書き始めにはめっきり顔を見せなくなった。夕方には必ずやって来て、アビエルとメラリがそれぞれのパートを読み上げるのを目をつぶって聞いていたが、意見を述べることは殆どなかった。頭は相変わらずはっきりしておられたからたぶんもう二人に任せて大丈夫だと思ったのだろう。

 その日も二人きりの編集会議で、アビエルが話し出した。
「これまでのところを確認しておくと、出エジプトの第一世代は荒野放浪四十年の間にすっかり死に絶え、モーセの口から、カナンに入れるのはエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアだけだということが語られていた。アロンはホル山で亡くなり、代わって『民数記』の半ば過ぎには、息子のエレアザルがその任のすべてを取り仕切っている」
「それが、アビエル、お前のずっと前の父祖に繋がる家系だね。もう一人の息子イタマルは圧倒的に影が薄い」
「話の腰を折るなって。とにかく、モアブの地で例の疫病が起きた時には、それを終わらせるのにエレアザルの息子のピネアスが一役買っていた。モーセもカナンに入れないことはすでに述べられており、彼は後継者をヨシュアに定めて死んだ。カナンへは通行許可がエドムから得られなくて迂回する感じになったけれど、ヘシボンの王シホンとバシャンの王で巨人族レパイムの生き残りであるオグとの戦いに勝利したことは『民数記』や『申命記』に記した。この続きからだね」
「あの辺は興味深い話がいろいろあったよね。エリコに斥候を放ったとき遊女ラハブの家に匿われたこととか、契約の箱を担いでヨルダン川を渡る時その水がせき止められたこととか」
「メラリ、あれは契約の箱の謎についての決定打だと思わないか? レビ人が先立って箱を担いではいるけれど、十二部族がそれぞれ一つずつヨルダン川から石をとって、宿営に運んで記念のしるしとして据えたり、レビ人が水をせき止めたところに十二の石を立てたりしたことは、もともとあの箱が十二部族連合の象徴だったことを暗示しているとしか思えない。ああ、この話はもうしない約束だったな」
「その後どうなるんだっけ?」
「ヨシュアはギルガルに宿営を張り、そこからエリコやアイを攻め滅ぼすが、エリコでのラッパの行進でその城壁が崩れる伝承や最初はアイを攻め取ることができなかった話を書く。アイの攻略に失敗したのは奉納物を私的に隠匿した者がいたせいだとわかり、アカンの一族には厳しい裁きがくだった。ほかには、領地内で服従の契約を結んだギベオンの住民の話が重要かな。彼らは薪切りや水汲みを担うものとなった、と」
メラリが言葉を差し挟んだ。
「それって、遠くからはるばるきたように見せかけて、服従の契約を結んだんだっけ?」
「そう。だがたとえそうでも、主を指して誓った契約は変えられない。薪切りと水汲みという彼らの仕事は会衆のためだけじゃなくて、主の祭壇のためにも、主が選ばれる場所で行われていたのだが、彼らは後にサウルとの間で何かあったらしいね」
「何かって?」
「覚えてないか、メラリ、アヒメレク翁から聞いた伝承のことを。書くとしたら次の『サムエル記』になるが、こんな話だった。飢饉が三年続いたのでダビデが主に尋ねたところ、生前サウルがこのギベオンの住民を殺した呪いだとわかり、サウルの子孫を成敗しなければならなかったという話だ」
「平和裏に住んでいた人たちをどうして殺したんだろう?」
「憶測で言うのもなんだが、ギベオンは主要な聖なる高台だったから、もしかしたら悪霊の降ったサウルがそこで主の祭壇のために仕えていた人たちに危害を加えたのかもしれないな。ノブの祭司八十五人を殺した事件もあったし、結局のところ、サウルは口寄せに頼るような状態になっていったからね。私が思い当たるのはそれくらいだ」
「ノブの祭司か…。お前のずっと前の父祖のアヒメレクが、それと知らずにダビデを助けたことを逆恨みした事件だな。アヒメレクは聖別されたパンだけでなく、主の天幕にあったゴリアテの剣も渡してしまったからだろうか?」
アビエルはメラリの問いに肩をすくめた。
「確かなことは何もわからない。とにかく、その時サウルは祭司だけでなく、町の男、女、乳幼児、家畜までみな殺したという。実際に手を下したのはエドム人ドエグだけど」
「それはまるで異教徒を滅ぼし尽くす戦いのようだ。殺戮は怨念しか生まない。『ヨシュア記』でも、いっさいの異教的要素を除くため、壮絶な場面が多いんじゃないか?」
「もう『士師記』と同じくらいの野蛮さだ」
「残念だったな。思惑が外れて」
アビエルは顔をしかめて話を続けた。
「それから、ギベオンがイスラエルと和を講じたことに恐れをなしたアモリ人の王たちが、ギベオンに攻め上ってくる話が入って、と」
「おっ、アモリの王五人衆だな。これはギルガルからヨシュアが夜通し全軍を率いてやってきて、蹴散らしたんだったっけ?」
「アゼカとマッケダ辺りまで追撃した時、主が雹を降らせたので剣によって倒れる者以上に大勢の兵が死んだ。ヨシュアは長いこと戦いに明け暮れたが、ともかくも約束の地を攻め取って戦いは止んだ」
「確かにそこに至るまでの経緯が相当長くてうんざりだ。だがヨシュアはモーセ亡き後、神の言葉を受けてイスラエルを導く指導者としての役目も担ったよね。その辺りはどうなってる?」
「祭儀の面からは、ヨシュアがエバル山に祭壇を築き燔祭や酬恩祭を捧げたこと、ヨシュアがモーセの律法を人々の前で書き写して、祝福と呪いの言葉をすべて読み上げたというのが中心的な出来事だ」
「これまでの『ヨシュア記』の説明を聞いて今さらだけど、エジプトからはるばる来てヨルダン川を渡り、最初に拠点としたのはギルガルだったのだね。そのしるしとして十二の石を据えたのもここだ」
「そう。そして、ここでまず行ったのは割礼だった。エジプトを出た後に荒野で生まれた民は、割礼を受けていなかっだというのだが、どうもよくわからない」
「そうだね。こういう儀礼は民族としてまず必ず受け継がれるはずのものだ」
「何か事情があるのは間違いない。ギルガルの名前は、エジプトでの恥辱を『転がし』去ったという意味からついた名だとも言うし、最古の伝承にまで遡る経緯があるのかもしれない」
「そうか。他には何かしたのか?」
「暦通り正月の十四日に過越しの祭を行ったよ。それ以後はマナは降らなくなった。あとは抜き身の剣をもった神の使いに、そこは聖なる地だから履き物を脱ぐように言われたことかな」
「この古来の伝承が残るギルガルも聖なる地なのだな。シロに神殿ができるのはずっと後か?」
「神殿じゃなくてまず会見の幕屋を建てるんだろう。それから全会衆がシロに集って攻め取ったというか攻め取るべきというか、ともかく各部族ごとの支配地域を決める。逃れの町の詳細や嗣業の地をもたないレビ族が、町とその放牧地を各部族から得たこともちゃんと記すよ」
「ヨルダン川東岸にまず土地を得たルベン、ガド、マナセ半部族が祭壇を作る事件があったな」
「あれはペオルのバアル事件を想起させるものだったから、大問題になった。シロの全会衆の意を受けて祭司エレアザルの子ピネハスが派遣されてなんとか収めたけどね。作った方は神に背く気はなく、主が神であることを証しするつもりの祭壇だったのだから。ちょっと不可解なところもあるが、彼らがもし自分のために作った祭壇なら神に背くことだから、見逃せなかったということか」
「だが、私がまとめている『士師記』になると私設の祭壇や祭司が出てきて、それはもはや放置できない事態となり聖所を集中させる必然性が高まっていくことになる」
「最後に死を前にしたヨシュアがシケムに全部族を集め、モーセの律法の書に堅く立つことを願って説教をする。そしてイスラエル民族の来し方を振り返り、民に神への服従の契約をさせる。この時の定めと掟を書き記したのがシケム契約だ。子供の頃シケムに行った時、そのしるしの大きな石を見たっけ」
一瞬のうちに、二人の心に懐かしい思い出がよぎった。
「そんなこともあったね。アビエル、あれはいつ頃だった?」
「うーん、八つになってたかどうか…」
「そうか、今思うとよく行けたな。子供の足には遠いよね。無事に行って来られるか、ドキドキものだったのを覚えている」
「心配するマヘリとハンナに、アヒメレク翁は、『無理なら途中で引き返せばよいんじゃ』と言って気にも留めなかった」
「今思うと、あの頃アヒメレク様はまだ若かった。子供にとっては老アヒメレクに違いなかったけど。あの時、結構急ぎの旅だったんじゃないかな。ミヅパやシロはともかくベテルもほとんど素通りだった」
「子供二人を連れての旅だから安全性を考えたら気が抜けなかったんだろう。メラリ、シケムで覚えているものが何かある?」
二人はしばらく記憶を手繰っていたが、メラリが答えた。
「そう言われると町の印象も薄いし、あの大きな石の他はあまりないね」
「あとはとにかく、日の入る方というか南のゲリジム山と、北のエバル山だな」
「『ゲリジム山には祝福を、エバル山には呪いを』…か。アヒメレク様はどうして私たちにシケムを見せたかったのだろう?」
「確かにベテルのような祭壇の跡もない。だが…そうだ! 父祖アブラハムが祝福の基とされて七十五歳でハランを出発し、カナン地方に入って最初に祭壇を築いたのがシケムだ。彼はそこで神から『わたしはあなたの子孫にこの地を与える』と言われるのだ。あの時、まだ名前はアブラムだったな。ベテルとアイの間に移って祭壇を築く前だよ」
「そうだったな。私も一つ思い出した。シケムは、ヤコブも兄エサウと和解した後、天幕を張って宿営したところじゃなかったか、アビエル?」
「その通りだ。確か、ヤコブは地元の者から土地を買って祭壇を築いたのでは?」
「私の記憶と一致した。もう一つ、少し近いところでは、ソロモン王の死後息子のレハベアムが即位のために赴いたのがシケムだ。北イスラエルの民の負担軽減の願いを拒んだため、王国の分裂が決定的になった場所でもある。王権が受け継がれるとき真っ先に行くべき場所がシケムだということだな」
「メラリ、今のはお前が書くことになってる『列王記』の予習から学んだことじゃないのか?」
「そうだよ。様々な事がつながっていくな」
「いや、シケムとの関連は王権に限らない。アブラハムの時からのことを考え合わせると、ヨシュアが全部族を集める場としてシケムを選んだのはその必然性があったのだとわかる。シケムには我々イスラエル民族の出発点を想起させるものがあるということだ。何か事がある時にそこへ帰っていくような場というか…」
「だからアヒメレク様は私たちをそこへ連れて行きたかったのだな」
「考えてみればあの頃は、エドム、モアブ、アンモンやツロおよびシドンと共に反バビロニア同盟を画策したけれど成果がなく、でもまだバビロニアが侵攻してくる前の、ここしかないというような時期だった」
「アヒメレク様はさすがだな」
「ああ、今さらながら恐ろしい人だ」

 二人はしばらく沈黙していたが、やがてメラリが口を開いた。
「『士師記』の話に入っていいかい?」
「ざっとでいいよ。『士師記』はさらにえぐい話で気が滅入るから。戦争には本当にもう辟易する」
「いや、気持ちはわかるけど、ざっとという訳にはいかないな。きっちり説明するからね。『士師記』を書くにあたって何より資料の古さに驚いた。ギデオンと神のやり取りはあっけにとられるほど親密だし、サムソンの両親と神の使いとの距離もびっくりするほど近いのだ。中身は割り切ってあれこれ考えずにどんどん書くつもりだ。話は『ヨシュア記』の続きからだが、実は領土の支配はまだまだできていない。そもそも士師というのは裁き司、裁判官だけど、神の御旨にそわないことは何事もうまくいかないわけだからその意味で指導者だな。軍事的な統率に関しても指導者となる。民が異教の神々を拝んで背信行為をするようになると、手に入れた領地の支配も失ってしまう。そのたびに士師が起こされて民を正し、周辺のカナン人と戦って支配権を取り戻すということが繰り返される。お互い策略やだまし合いみたいな作戦を用いて戦いが行われ、内紛はあるは掠奪はあるはむごい話が満載で確かにげっそりだ。しかたないから個性的な幾人かの預言者を印象的に書くことにする」
メラリの説明がまだまだ続きそうな気配に、アビエルは覚悟を決めた。
「誰からいく? どんどん言って」
「まず、なつめ椰子の木の下に座を定めて裁きをしていた女預言者デボラだ。この時代イスラエルを悩ませていたのはカナンの王ヤビンだった。カナン人は鉄器を持っていたからね。ヤビンの軍の長はシセラで、鉄の戦車九百両を率いていたというのだからすごい。デボラはナフタリ族のバラクに命じて、ナフタリの部族とゼブルンの部族から一万人を率いて、シセラと戦うように告げる」
「デボラ自身は預言するだけで、軍を率いることはないんだったな。女だからかな」
アビエルの言葉にメラリは軽く相槌を打って、話を続けた。
「この日デボラの預言通りイスラエルは大勝するのだが、将軍シセラは逃げて、友好的関係にあったケニ人ヘベルの天幕に行く。その妻ヤエルは愛想よく彼を迎えるのだが、彼が熟睡した時に手に槌を取って天幕のくぎをこめかみに打ち込み、バラクに引き渡した」
「デボラ以上に怖い女だな」
「長い『デボラの歌』はとても古い伝承を伝えているようだ。次は、羊の毛と露の逸話で有名なエル・バアル即ちバアルと争う者、またの名をギデオンだ。彼の時代にはミデアン人に苦しめられているから、『民数記』の頃とは時代が違うな。アマレク人なんかもやってきて地の産物や家畜をみな持ち去るので、山の岩屋や要害に住むしかない状況だった」
「メラリ、こんなこと言ったら不謹慎かもしれないけど、最初の頃のギデオンってモーセの小型版のような感じがする」
「ははっ、言い得て妙だな。神の使いがギデオンに顕れミデアン人を討つように告げた時、彼は『自分の氏族がマナセ族の中で最も弱いアビエゼル人であり、自分が父の家族の中で最も小さい者だからそんなことはできない』と言う。その時、『わたしがあなたと共にいるから』と告げられるのはモーセの時と同じ。さらに、自分と語るのが神であると言う証拠を求めるのも同じだね。顔をあわせて主の使いを見たことを恐れるのも、また然り。ギデオンはついに神が自分に顕れたことを知って、祭壇を築く」
メラリの話を聞いていたアビエルは、神妙な面持ちになった。
「神が語りかけても、なかなかすぐには信じられないものなのだね。特に自分の状況が悪い時には、神が共におられるならばどうしてこんなことが自分に臨むのだと言いたくなる。神などいないと。かつて大きな恵みを頂いたとしても、今その恵みはどこにあるかとね」
メラリは小さく頷いて話を続けた。
「その後も戦いの前にギデオンは神を試すけど、これが露と羊の毛の不思議な逸話だ。まず打ち場の毛だけが濡れて地面は乾いている状態、逆に羊の毛だけが渇いて地面が露で濡れている状態を神に願って確かめる。本当に手がかかるよね。ギデオンの最初の働きは父のバアルの祭壇を打ち壊し、アシラ像を切り倒したことだった。昼間は家族や町の人の目を恐れてできなくて、それを行ったのが夜だったというのが、まだ神を信じきれないギデオンの弱さを示している」
「ギデオンを引き出して殺そうとする町の人に対する父ヨアシの言が奮ってたよね。『自分の祭壇が打ち壊されたのだから、バアル自らその人と言い争うべきだ』とね。そのため、エル・バアルがギデオンの呼び名ともなった」
「でもその後、ギデオンに神の霊が臨んだので、彼は目覚ましい働きを見せる。自分の氏族アビエゼル人が彼に従っただけでなく、彼が遣わした使者により、マナセ、アセル、ゼブルンおよびナフタリの各部族が集まることになった」
部族という言葉に、アビエルはちょっと興味を引かれた。
「この頃って、部族はどんな状態だったんだろう。戦いの折に、イスラエル全部族が集結する訳にはいかなかったのか?」
「ええと、カナン人との戦いについては、最初にまずユダ族がシメオン族を誘って一緒に攻め上る話を置くけど、これはユダ・シメオン連合だね。それからさっきのデボラの時はナフタリ・ゼブルン連合だろう、今度はマナセ・アセル・ゼブルン・ナフタリ連合か。ギレアデ人エフタがアンモン人と戦って勝利した時には、エフライムがなぜ自分たちを呼ばなかったのかと文句を言ってきて、ギレアデ人とエフライム人の間にはいざこざがあったらしいことがわかったし…」
「エフタと言えば、その戦いで全焼の献げ物となった一人娘がいたよね。父が神に対して立てた請願を知らずに、勝利した父を迎えに出て…。あの悲壮な話は涙なしには読めない。エフタってマナセの人?」「うーん、ヤイルもそうだけど、資料にはギレアデ人としか記されていないようだね。だからこの頃にはヨルダン東岸のマナセ、ガド、ルベンの境界は部族的にも薄れつつあったのだと思う。エフライムとの間にはお国訛りの違いもはっきりあったようだけどね」
「あ、覚えてる。『シボレテ』が発音できるかどうかで、ギレアデ人かどうか確かめた話があったな」
「そんなふうにイスラエルの中での争いもあったし、部族連合は部分的なものに留まっていたようだ。イッサカル族のトラやゼブルン族のエロン、他にも士師たちが記録されているが、私の感触ではどちらかというとこの時代、それぞれの地域でそれぞれの氏族ごとに結束を強めていて、十二部族連合はすでに崩壊しかけていたという感が強い」「ふうん、そうか。そしてやがては部族自体の境界もなくなっていくのだな」
「アビエル、お前、『申命記』の最後でモーセの死に際の祝福から、シメオンの名をはずしただろう?」
「シメオンはユダ族に吸収される運命だったのだ。メラリ、ユダ族からは、カレブの甥のオテニエルのことも一言書いておいてくれる? カレブはモーセがカデシ・バルネアで放った十二人の斥候の一人だし、ヨシュアとともに大事な働きをしたからね。イスラエルをカナンに導いた陰の立役者と言ってもいい。あとは、ギデオンは息子が多かったけど、妾の子アビメレクの血なまぐさい話があったよね」
「七十人いる兄弟をみな殺して王になろうとしたアビメレクだね、一人は逃れたけど。そう言えばあれもシケムの話だった。結局三年間統治しただけで人々が離反し、やがて争いがあって…、これはどっちもどっちの見苦しさだったが、アビメレクの最後は高いやぐらから一人の女が落とした臼で頭を割られてっていう壮絶なものだった」
「メラリ、士師って言えば、誰でも真っ先に思い出すのはやっぱりサムソンだろう」
「生まれながらのナジル人で髪の毛を剃り落されると力を失う怪力サムソンか。サムソンの話はしっちゃかめっちゃかここに極まれりって感じだけど、なんか憐れで憎めない。結構ひどい目に遭わされてたんだよね。ペリシテ人の舅の陰謀で妻を失った時、怒って狐三百頭の尾と尾を合わせて松明をくくり付け、刈り入れ前の麦畑に放つなんて、サムソンにしかできない豪快さだ。その後も懲りずにペリシテ人デリラを妻に迎える。彼はデリラの術中に落ちてしまう気の毒な男だったが、最後に一矢報いたな。波乱の一生だったけど」
「ナジル人ってさ…」
「酒を飲まない、ぶどうを食べない、かみそりを当てない、死体に近づかない。『民数記』で書いたからよく覚えている」
「そうじゃなくて、ナジル人とレカブ人って似てる? 何か関係あるのかな」
「レカブ人? 何だっけ? エルサレムにもいるよね。かすかな記憶があるような…。あ、エヒウと共にバアル礼拝を根絶しようとしたレカブ人ヨナダブがいたな。書くのはまだずっと先だけど。エレミヤが絶賛してたんじゃなかった?」
アビエルが額に手を当てた。
「それで思い出した。ナジル人と似てるのは酒を飲まないことくらいか。他には家を建てず、種を蒔かず、畑を所有せずというのだから、昔ながらの遊牧民としての生活を守り続けてきた人たちだな。北イスラエルが滅んでからも、エルサレムとの間を移動して暮らしていたのか。バビロニアの軍勢が攻め上ってきた時、危険を感じてエルサレムに来たのだな。話を逸らしてごめん。いろいろ気になって。メラリと話しているとだいたいのことがはっきりしてくる」
「それはお互いさまだ。私も今、お前の話を聞いて思い当たったことがある。調べていて気づいたのは、イスラエルが領地を得た後も、相当数のカナン人がそのまま元の場所に住み続けていたということだ。争いはあっただろうが、マナセ、エフライム、ゼブルン、アセル、ナフタリ、ダンなどどこでも部分的には、ヘテ人やアモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人などと共存している。追い出さなかったのか追い出せなかったのかは微妙だが、このことは記しておいたほうがいいな」「それがカナン征服の実情なのだろう。こうして長い長い時間をかけてイスラエルは約束の地を得た。神の目から見れば、ほんの一日のことなのであろうが」
「士師はこんなところかな」とメラリが考えていると、アビエルがうずうずしたように言った。
「もうひとつ、どうでもいいこと話してもいい?」
「嫌な予感がするな」
「気持ち悪すぎて忘れられないのは、左ききのエホデがモアブの王エグロンを、奸計によって討った時の話だ」
「それは忘れさせてほしかった」
「忘れたい話ほど忘れられないものだ。彼は長さ一キュビトのもろ刃の剣でエグロンの腹をぶすっと刺すのだが、エグロンは非常に太った人だったから、剣のつかも刃と共に入ってしまい、抜き取れず脂肪が刃をふさいだ」
「その後のことは絶対口にするなよ。アビエル、お前今日はサムソン並みの大暴走だ。とにかく『士師記』はそういう粗野な話が満ち満ちていることを再確認できた。戦争だから殺戮や蛮行が多くていやになる。でも古い資料はそれだけで価値があるからそのまま残すよ」
その言葉に、アビエルが真面目な顔で言った。
「よくよく考えてみると、残虐行為は昔だけのことじゃない。実際エルサレムは焼き払われて完全に廃墟となった。エルサレムだけじゃない、人の住むところどこでもそういうことはあったし、今もある」
メラリは大きく頷いた。
「何より慄然とさせられるのは、そういう残虐行為の果てに今があり、私たちがいるということだ。単に野蛮だ、残酷だと言って済ませられることじゃない。認めたくないことだが、そういう衝動は紛れもなく私たちの中にもあって、きっかけがあればいつ表に吹き出すかわからないのだから」
「うーん、これは考え続けなければならない問題だな。それと、メラリ、思ったんだけど、今から見ると士師ってほとんどが北イスラエルの人だね」
「預言者活動は北の伝統ってことか。それとは別の話で触れておかなければならないのは、前に話した私設の祭壇の件でミカという男の話だ」
「ああ、その家からダンの聖所に引き抜かれる話か」
「あれはよく資料に当たったら、とんでもない話だった」
「やっぱり『士師記』はとんでもない話が満載だ」
アビエルはくっくと小さく笑って、メラリの言葉を待った。
「そもそもエフライムの産地に住むこのミカという男、母親の銀を盗んでいた。それを母に告白して返したら、なぜだか母親はその銀で刻んだ像と鋳た像の二体を作らせた。そればかりか、ミカは自分の家に神の宮、エポデ、テラピムを造り、自分の子の一人を立てて勝手に祭司とした」
「恐るべき蛮行だな」
「そこになんとユダのベツレヘムから若いレビ人が旅してきて、ミカに請われて、年に銀十枚と衣食を支給する約束で彼の家の祭司として雇われる」
「ますます恐るべき話だ」
「いや、ここからがすごいのだ」
メラリの口調は熱を帯びてきた。
「ここに、まだ嗣業の地を得ていなかったダン部族の話が絡んでくる。彼らはライシによい地を見つけ、ゾラとエシタオルから移住するのだが…」
「ゾラ? サムソンの故郷じゃないか」
「『士師記』を書くための資料には、なぜかダン族の話が詳しく残っている。出処がダンの聖所だったのか、あるいは書きとめて残したのがダン族の祭司だってことだろうな。この話もそれと密接に関係する。それで、ダンの入植者たちがミカの家に立ち寄って、以前幸運の託宣を告げてくれたこの祭司を一緒に連れて行こうとする。その時、武装した六百人のダン族がミカの銀の像、エポデ、テラピムを取り上げ、『ひとりの家の祭司であるのと、イスラエルの一部族、一氏族の祭司であるのと、どちらがよいか』と迫ると、その祭司は喜んで彼らに加わったというのだ」
二人の顔からは笑いが消えて、しばらく向かい合って無言だった。祭司の在り方が問われているのだ。祭司と言えば、自分たちはアヒメレク翁しか知らない。イスラエルの民の救いのために粉骨砕身務めている姿をずっと見てきて、祭司とはそのようなものと心得ていた。だが、今の話のような祭司もいたとなると、イスラエルがやがて王国時代に移行しそれが滅亡へと向かうのは、祭司の罪の結果でもあったのだ。しばしの沈黙をアビエルが破った。
「末恐ろしい話だ。人が自分のために祭壇を作り祭司を持ち、祭司が名誉欲や金銭欲に駆られて聖所を渡り歩くとしたらそんなものは聖所でも祭司でも何でもない。肝に銘じなければなるまい」
「それから…」
「まだあるの?」
「あるだろう、この時代のイスラエル民族最大の不祥事が」
「やっぱり書かなきゃだめ…なのか?」
アビエルがメラリの表情を探りながら訊いた。メラリの答えはきっぱりしていた。
「書くさ。あったことだからな。これもエフライムの山地に寄留していたレビ人の話だ。妾としていた女がベツレヘムの父親のところへ帰ってしまい、迎えに行く話から始まる」
「その話はしなくていいよ、気分が悪くなるから」
「とにかく二頭のろばで帰るのだが、日が傾いてから出発したから、途中エルサレムの辺りで日が暮れてしまう。しかし外国人の町には泊まらずに、ベニヤミン族のギベアまで行って一夜を過ごすことにするのだが、その夜恐ろしいことが起こる」
「あの頃はエルサレムの辺りはエブス人の町、外国人の町だったってことが、私はこの話で明確に意識できた気がする」
「とにかくギベアの住人の蛮行のために、最終的にはベニヤミン族対
それ以外のイスラエル全部族の戦いになって、ベニヤミン族はイスラエル民族から断たれかけた。しかし、それではあまりに憐れだということになり、ベニヤミン族の嫁探しの問題が浮上する。他のイスラエル民族は娘をベニヤミン族に嫁がせないと誓っていたからね」
「結局、蛮行から始まったことは蛮行で終わるしかないってことだ」
「そうだな」
メラリはふぅっと大きなため息をつきながら言った。
「よし、アビエル。お前は『ヨシュア記』、私は『士師記』の、気が重いところをさっさと書いて早く王国史に入ろう」

 『士師記』が書き上がった日の夕方、アヒメレクの前でメラリがそれを読み上げた後、話を続けた。
「アヒメレク様、明日から王国の書にかかります。急に身近な歴史になる感じがします。変な質問ですが、王制って必要だったのでしょうか? 良きものだったのでしょうか?」
「お前はどう思う?」
逆にアヒメレクがメラリに尋ねた。
「国としての基盤を作るためには必要だったとも言えますが、国の運命があまりに王の資質に左右されますゆえ、一概に良いものだとは到底言えません。調べれば調べるほど、なぜイスラエルは神に背き続けるのかと心が重くなります」
するとアヒメレクは突然言った。
「メラリ、十戒の第七の戒めは何か?」
「『あなたは姦淫してはならない』です」
急に話が変わったので怪訝に思いながらメラリが答えると、アヒメレクは言った。
「昔、姦淫の妻を愛するよう命じられた預言者がいた」
「神がそんなことをお命じになるはずがありません」
こんな話をするアヒメレクの意図がわからず、メラリは動揺した。
「ホセアは銀十五シケルと大麦一ホメル半で、淫行の女ゴメルを買い取った。滅びに向かう民を、それでも愛する神の苦しみがわかるのはそのような者だけだろう」
話が逸れそうな気配に、アビエルが口を出した。
「『サムエル記』を書くにあたって資料を読み込みましたが、王制についてあるいは初代のサウル王については、肯定的に見るものと批判的に見るものと両方あります。或る程度どちらかに決めて書かないといけないですよね?」
「わしは必ずしもそうは思わんよ。この際言っておくが、お前たちの書き上げるものも完成品ではあり得ない。一言一句そのまま残るなどということはないのだ。おそらく編集作業は御心にかなう者の手によって引き継がれるだろう。国が滅んでもイスラエル民族の歴史が終わるわけではない。神の御業を語る者がいる限りこの仕事は続くのじゃ」
「私たちの書いた書もこの地下室の巻物のように資料の一つになるということですか? なんだかがっかりです」
アビエルが正直な気持ちを述べると、アヒメレクは言った。
「いや、そうではない。この書物は間違いなく、まとまった一つの金字塔となる。矛盾する資料はそのまま書き記せと言った訳は、これまでお前たちのしてきた編集の仕方を思い出せばわかる。同じ出来事を示すと思われる別の資料があった時はどうしてきたかな、アビエル?」
「明らかに適切なものとわかればそちらを使いましたが、だいたいはつじつまが合わなくても両方盛り込みました」
「そうじゃろう。これほどの古い巻物の数々をむげに書き落としたり故意に排除することはできぬものじゃ。お前たちが書いたものも同じ運命をたどることになるじゃろう。考えてもごらん、神殿喪失以来祭儀の仕方も変わってきた。動物や穀物を焼いて奉献するばかりでなく、民の前で律法が読み上げられる機会が増えた。お前たちの書いた書物も間違いなくそのように読み上げられる巻物の束となる。民の記憶の一部となればそれは変更不能なものとなるのだ。矛盾する記述があっても残しておけと言ったのは、書物は後に誰かの手が入って変更が加えられるにしても、言葉を追加するのが殆どだということじゃ。したがってそれは何らかの痕跡を残さずにはおかない」
アビエルとメラリは顔を見合わせた。メラリが言った。
「アヒメレク様、とてもよくわかりました。これからの編集の拠り所となります」



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 第6章へ続く


 

 

























民数記14:29〜30、32:11〜12
民数記3:32






民数記25:6〜13



民数記21:21〜35
申命記2:24〜3:10



ヨシュア2章
ヨシュア3章〜4章













ヨシュア6章

ヨシュア7章


ヨシュア9章








ヨシュア記9:27







サム下21:1〜14






列王記上3:4


サム上22:9〜19
サム上28:7























ヨシュア10章














ヨシュア8:30〜35





ヨシュア4:19〜20、


ヨシュア5:2〜7






ヨシュア5:9





ヨシュア5:10〜15






ヨシュア18章〜19章


ヨシュア20章〜21章

ヨシュア22:10〜34


民数記25章












ヨシュア24:1〜25



ヨシュア24:26〜27

























ヨシュア8:33


申命記11:29



創世記12:4〜7





創世記33:1〜20







列王上12:1



















エレミヤ27:3





































士師記4章




















士師記5章



士師記6:1〜6







士師記6:11〜34


















士師記6:34〜40





士師記6:25〜27





士師記6:31〜35














士師記1:1〜3


士師記4:4〜10



士師記8:1



士師記11:29〜40








士師記12:5〜6
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士師記10:1
士師記12:11





申命記33章




士師記3:9〜11
民数記13章〜14章




士師記9章









士師記13:2〜7




士師記14章〜15章


士師記16章





民数記6:1〜8






列王下10:15〜17






エレミヤ35章














士師記1:21〜36
士師記3:5












士師記3:15〜25












































士師記17章


















士師記18章









































士師記19章














士師記20章〜21章


































出エジプト20:14
申命記5:18







ホセア3:1〜2

















































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