第6章



 ついで、アビエルが『サムエル記』を、メラリが『列王記』を書き始めた。始めに、アビエルが『サムエル記』の構想をメラリに説明した。

「『サムエル記』は『士師記』の終わりの時代辺りからだけど、まず何といっても、最後の士師にして偉大な預言者である、サムエル様の召命に至るまでのことを書く。神に捧げることを請願して子を与えられた母ハンナのこと、幼い時からシロ神殿の祭司エリのもとで祭司となるべく修行を積んだこと、神の箱のある神殿で夜、燭火の番をしていた時自分の名を呼ぶ神の声を聴いたこと…。幼いサムエル様が亜麻布のエポデを着けて神に仕える務めを果たしていたという姿を思い浮かべると、本当にいじらしいね。毎年夫のエルカナと神殿詣でをするハンナがサムエルのために作った小さい上着を持参したことは、母の愛情を感じさせるね。マヘリとハンナも私を本当に愛して育ててくれた。実の息子ではないのに。感謝に堪えないよ、メラリ」
「今更そんなこと言うなよ。私たちは双子のようなものだとハンナは
言ってただろう」
「エリは祭司として大成したけれど子育てには失敗したね。息子のホフニとピネハスは神の前に悪事を行っていたから、なおさら少年サムエルとの対照が著しい。エリはその家系が一人の祭司を残して断たれること、息子たちが同じ日に死ぬことを神の使いに告げられる。そして、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言って、幼くして預言者として立てられたサムエルも、エリの家系の暗い未来預言を告げられる…」
「それからサウルのろば捜しの話かな? 正確には、ろば捜し転じて神の人探しだけど」
「いや、後の伏線として神の箱の話が入る」
「ペリシテとの戦いの中で神の箱が奪われ戻されるという話を、サウルの即位やダビデへの王位継承という筋と並行して書くんだね」
「あの時勝利を呼び込もうとして、シロ神殿から戦場に運び出された神の箱が全く無力のまま奪われてしまうのは、自分たちの都合で神を操ろうとした当然の報いだった。その戦いでエリの息子たちは死んだが、その知らせがシロに伝えられて老齢のエリも死んだ。息子のこと
より神の箱が奪われたことを聞いた時、その座から落ちて首を折ってね。祭司としては大したものだったというべきだろう」
「エリが聞いた自分の家系に関する預言の中で、断たれずに一人残される祭司というのは誰のことだ?」
「知ってて訊いてるのかい? その時身ごもっていたピネハスの妻は失意のうちに子供を産み、その子をイカボデと名付けた。『栄光はイスラエルを去った』という意味だ。イガボデには兄弟アヒトブがおり、その子アヒヤがシロ神殿の祭司を務めた」
「アヒトブ、アヒヤ…か。そしていよいよ即位前のダビデと関わりのあった、あの祭司アヒメレクへと繋がるんだな、アビエル」
「メラリ、私がその血筋に連なる者であることは、もう名乗れないのだ。それに不思議な気がするが、そんな血筋などもうどうでもよいのだ。私が祭司としての自分の家系をこの書に記しても、おそらくやがて書き換えられることになるだろう。アヒメレクが言ったように痕跡と言う形では何か残るかもしれないが。しかし、それももうどうでもいいことだ。この書が書き上げられさえしたら」
「そうか。それを聞いてなんだか気が楽になったよ」
晴れ晴れとした顔でアビエルを見たメラリは、言葉を続けた。
「神の箱を奪ったペリシテの方も不吉なことや災厄に見舞われて、困った挙句それを返却しようということになり…、ああ、あの辺りは人間の不信仰と愚かさを存分に書けそうだな」
「まったくその通りだ。気づいたのだが、成長したサムエルは故郷のラマに帰り、裁き司として、また預言者としてベテル、ギルガル、ミヅパの聖所を巡回指導していたけれど、不思議なことにシロに立ち寄った気配がない。まるでシロを避けているようだ。シロだけじゃない、その箱がペリシテから返されて、キリアテ・ヤリムのアビナダブのところにあった時も、サムエルが訪れた形跡はない」
「シロに関しては、エリの一族にまつわる事柄から距離をおきたかったんじゃないか? あるいはもうその頃にはシロはペリシテ軍の攻撃によって荒廃していたのだろう」
「そうだな。この頃のイスラエルはまだペリシテと対等に戦えるような状態じゃなかった。鉄工がいなかったということは武器を自前で調達できなかったということだから、お話にならない。剣や槍を作れず、鍬や鎌、斧などの刃先をつける時はペリシテ人のところへ行って代価
を払ってやってもらうしかなかったんだから」
「むしろサムエルの祈りによってイスラエルが保たれていたということだけでも奇跡的なことだ。サムエルがいなかったらイスラエルはとうに滅んでいたかもしれないな」
「本当にそうだ。サウルにしてもダビデにしても、神の言葉を受けて王として油注ぐのはサムエルだ。ほとんど前面に出ることはないけれど、この書で一番力を示すのが預言者サムエルだね」
「サムエルはこの頃すでに、エレミヤが語ったのと同じようなことを語っていたのではなかった?」
「そうだ。主が何より喜ばれるのはその御言葉に聞き従う事であって、燔祭や犠牲ではないとサムエルは告げていた。たとえそれが、神への最上の献げ物となる動物の部位であっても。『見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる』とね」
「今も昔も大事なのはそれだけなのに」
「だが、そのサムエルでも人間である限り完全なものではないのだ。そもそも王を立ててほしいと言いだしたのは民であって、その理由はサムエルの跡を継いで裁き司となった息子たちが賄賂を取って公正
な裁きをしなかったからなのだ。ああ、二代目がちゃんと立つのはどうしてこうも難しいのだろうね、メラリ。その後、神はサムエルを通していかに王が民の暮らしを抑圧する存在であるかという王権の本質を語るけれども、それでも民は王を欲したので、神は民の声に聞き従うようサムエルに命じたのだ。私は互いを知らないサムエルとサウルが同時に相手を探し求めて出会い、ラマで共に食事する場面にはなんかじんときたな。翌日サムエルはサウルに油注ぎを行い、やがて神の霊が激しくサウルに降るようになる」
「あれっ、サウルはサムエルが集めたイスラエルの人々の前でくじに当たったんじゃなかったっけ? 人より肩から上一つ分ほども背が高かったサウルが、荷物の間に隠れていて見つからないという笑える話があったと思うんだが」
「メラリ、それはミヅパでの話だ。サウルの即位に関してはラマの伝承以外にあと二つ別系統の伝承があった。どれも捨てがたいから三つとも中に収めるよ」
「そうしてくれ。資料にあることを残すのが私たちの大事な役目だ。ちなみに三つ目はどこのだい?」
「ギルガルだな。そこで民によって王にされているから」
「どこのギルガル?」
「サムエルが巡っていた町の一つのギルガルだよ。あ、そうか。ヨシュアが初めてヨルダン川を渡って築いたギルガルは、最初の王の即位にふさわしかったかもな。でもあれはもう大昔だ。ミヅパにしてもラマにしても同じ地名があるから注意しないとね」
「じゃあ、後にエリシャが預言者仲間と住んで、後継の指導にあたっていた場所だな。それにしてもギルガル、エドム、カルメル山、ダマスコとは、エリシャの活動範囲は広いな。いずれにしてもギルガルはヨルダン川の近くだ。エリシャと仲間たちはヨルダンの材木で住まいを拡張したんじゃなかったかな、アビエル?」
「ひとり合点するな、メラリ。エリシャのことは『列王記』で存分に書いてくれ。サウルの話に戻るよ。ギルガルで王にされる前段がちょっと興味深い。アンモン人ナハシがヤベシ・ギレアデを攻撃した時、ギベアのサウルが全イスラエルに援軍を訴え、勝利する話なんだが…」
「サウルがベニヤミン族なのは知っていたが、ギベアの出なのか! 『士師記』で書いたあのいまわしい事件の発端となった町…。それに
その後のベニヤミン族の血筋を語るには欠かせない、ヤベシ・ギレアデ絡みとは因縁だな」
「ベニヤミンのような不名誉な事件を起こした部族からイスラエル最初の王が出たのだ。神の憐れみと言うべきだろう。だが、サウルに関してはなんだかずいぶん厳しい見方を示す資料がある。悪王ではなかったと思うのだが。ギルガルで燔祭や酬恩祭を捧げる時、サムエルの到着を待ちきれず自分でその儀礼を行ってしまい、祭司の権限を侵したことはあったけど」
「あれは気の毒な面もあった。七日という期限に遅れたのはサムエルの方だったし、そのため民が自分を離れて散っていくのだもの、なんとかしなくてはと思うのもわからないでもない。ペリシテ人がいつギルガルを攻めに来てもおかしくない状況の中で、まだ神への嘆願をしていないとなれば不安になって当然だ」
「だがやはりサムエルの到着を待つべきだったのだ。確かにギルガルで七日間待てと言われて、その日に遅れたのはサムエルだ。しかし彼の言葉をよく聞けば、サムエルは『あなたのすべき事をあなたに示すまで』と言っていたのだ。だから、サウルは神がサムエルを通して語
られる言葉が届くまで、待たねばならなかったのだ」
「サウルにはずいぶん酷だな」
「メラリ、うまく言えないんだが、『神の時』ということを最近ひしひしと感じるのだ。人の生活は日々切れ目なく続いていき、毎日様々なことが起き、時に大きな節目もあって歴史は動いていくが、『神の時』はそれとはまったく別に流れている。六日の間働いて安息日が来る、それが『神の時』だ。王国が成ってから歴代の王たちがそれぞれの統治をしてきたが、北イスラエル王国もユダ王国も今現在影も形もない。それが『神の時』だ。神の掟がいかにももっともらしい人間の解釈で変えられるものではないように、『神の時』も人の考えで動くものではない」
「アビエル、お前の言う通り、神の目には明らかなことでも我々には見えていないことが多いな。そのことを私たちはいつも見過ごしてしまう。気の毒なことに、この一件でサウルはその王国が長く続かないこと、神はその心にかなう人を求めて、その人に王国を引き渡すことをサムエルから告げられてしまうんだったな? あの時サムエルがサウルに告げた言葉はよく覚えてる。サムエルは突き放すようにこう
言うんだ、『あなたは愚かなことをした』とね。私は自分の胸が痛かった。よかれと思って自分勝手な考えでこのような愚かな行為をしてしまうことは、私の場合よくあるから」
「メラリ、私はこの一件がサウルの心に大きな傷を与えたのは間違いないと思う。サウル王は娘婿のダビデが勢いを増してくると、妬んで彼を殺そうとするよね。その時、資料では神からの悪霊が降ったという書き方がされているけれど、最初あれはただの嫉妬かと思っていた。女たちが『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と言ってダビデをほめそやしたから、嫉妬に狂ったんだとね。この際ついでに言うと、私は人がどうして他人を妬んだりするのか、さっぱりわからない」
しばらく沈黙があって、メラリが静かに言った。
「そういうところかな、私がアビエルを羨ましく思うのは」
「他人を羨んでもその人になれるわけじゃないのに、まったく意味のないことだ。でも、メラリが私を羨んだことがあるなんてそれこそ意外だな」
「私は、『アビエルは他人を羨ましがらないからいいな』って、子供の頃から思ってた」
「言葉足らずだったな。ちゃんと説明するとね、私は羨ましかったよ、私はずっとメラリのことが羨ましかった。たとえば、あの日真っ直ぐ神殿の内陣に入っていったこと、自分には絶対できないことだからすごいなと思うしかなかった。この書を書くことだってそう。私は逃げ出したかったのにメラリは即座に自分にも書かせてほしいとアヒメレク翁に頼み込んだだろ。ほっとする一方で、とてもかなわないと思った」
「そうだったの? やっぱり話さないとわからないものだな。私は、他人と張り合ったりせずに自分を保っているアビエルがずっと好きだった。アヒメレク様は分け隔てなさらなかったけれど、それでもきっとアビエルの方が大事に違いないなんて、ひねくれたところもあったかも」
「ヨナタンも同じじゃない? たとえ自分よりダビデが王にふさわしいと思っていても、父サウルがそのまま王位をダビデに譲ってしまったらやはり心中穏やかならぬものがあったと思う」
「サウルの息子という点でヨナタンは正統な王位継承者だったし、王としての十分な資質も備えていた。従卒と二人だけでペリシテの先陣
に切り込んで一泡吹かせる辺りは見事じゃないか」
それを聞いて、アビエルは滔々と話し出した。
「ミクマシの渡りであの険しい岩をよじ登って奇襲した話だね、あれは痛快だった。一泡どころじゃない。それを端緒にペリシテ軍は大混乱に陥り、様子見をしていたヘブル人やエフライムの山地に隠れていた者たちも出てきてペリシテ人を追撃したのだから。それにヨナタンは統率者として優れた面を持っていただけじゃないよ。この作戦だって、神がついておられるならば兵の多寡は関係ないと言って出かけているからね。信仰心厚く主に依り頼む人でもあった」
「ヨナタンの話になると熱が入るな、アビエル。いずれにしても、我々の目には人間としての力量や信仰の強さという点で遜色ないヨナタンがなぜ次の王に選ばれず、ダビデが選ばれたのかはますますわからない。神の選びというほかないのだ」
「わからないことはわからないままにしておかないとね。とにかくサウルがダビデを殺そうとすることで、ヨナタンとダビデの友情は一層堅くなった。自分に代わって神の御心にかなう人が王になるというサムエルの預言は、サウルの心の奥底に沈潜していたはずだから、サウ
ルは次第に心を病んだのだろう。もはやダビデをこの世から消さない限り、サウルの心が平安になることはなかった。だが神の預言は必ず実現する。やはりサウルに降ったのは神からの悪霊だったのだ。だからこそ、実際、神はダビデの命を守られたし、ダビデの逃亡生活も神のご計画のうちだったのだと思う」
「なあ、アビエル、今ふいに思ったのだけれど、ひょっとして私たちが今一緒にこれらの書を書いているのはアヒメレク翁のご計画ではないのか。お前と私の性格を知り尽くしたアヒメレク様が最初から練った計画だったのではないか。お前は引っ込み思案だし、私は出たがりだ。アヒメレク様は、私たちが二人で力を合わせて、この大仕事に取り組める方策を講じたんじゃないのか?」
「あの日アサフの病を知っててメラリを遣わし、戻ってきたところで話を全部聞かせたってこと? アヒメレクが仕組んでお前と私をうまく用いたってこと?」
「まさかと思いたいが、お考えを推し量ることのできない方だからな」
「アヒメレクの企てでないにしても、神のご計画だったことは確かだ。私一人ではこれらの書を完成しようもなかっただろうからね。いずれ
にしても神からの悪霊なるものが自分の身に降らないことを祈るばかりだ。ああ、ちょっとしゃべりすぎた」
「そうだな。でも話せてよかった」
それからメラリが言った。
「残りを聞くのは明日でいいかな?」
「いいけど、どうして?」
「今日はこれから、ちょっと出かけて来る」
「どこへ行くんだ?」
「うん、資料集めだ」
「何の?」
「もちろん、『列王記』の。じゃ、明日ね」
メラリは出て行った。こんなことは初めてだ。ちゃんと説明してくれていない。アビエルはなんだか胸騒ぎがした。

 次の日、メラリはいつもと変わらぬ様子で現れた。そして、アビエルが何か言う前にこう言った。
「『サムエル記』の昨日の話の続きを聞かせてくれ」
アビエルはメラリから何も聞けずに、話の続きをすることになった。
「『サムエル記』で他に目ぼしいこととしては、王制に限らず何でも物事の始まりは若々しい力を感じることかな」
「うん、この頃の話はなんとなく溌剌とした明るさがあるね」
「ヨナタンは目覚ましい活躍をしたが、サウルによる食事禁止命令を知らずにエフライムの山中で蜜を口にしてしまう。やがてそのことを知ったサウルが犯人を突き止めヨナタンを処罰しなければならなくなる」
「だいたい食事をとらずに戦うなんて無茶だ。サウルの禁止命令の方に無理がある。エフライムは蜜の産地なんだし、天然の恵みが豊かなのだから」
「知らずに犯した禁止命令であってもヨナタンは潔く死を覚悟する。結局、このたびの勝利の立役者はヨナタンであるという民の声のおかげで死を免れた。結末を知っていてもハラハラする場面だ」
「わかった、わかった、お前のヨナタン愛は」
「メラリ、民の力が強いのは北イスラエルの伝統かな?」
「なるほど、そう言えばそうかもしれないな。私がいま準備を進めて
いる『列王記』では、王国分裂後の北イスラエルで王として立てられるのはヤラベアムだ。命の危険を感じてエジプトに逃げていた彼がソロモンの死後戻ってきた時、彼を招いて王位につけたのは民だった。それに、サマリヤ陥落の時もそうだ。アッシリアのシャルマネセルは自分に背いた北イスラエルの王ホセアを監禁したが、サマリヤが陥落したのは三年後だ。つまり、民は王なしで三年間踏ん張ったということだ。ユダ王国では到底考えられないな」
「やっぱりそうか。だが、王権に比して民の力が強いというのは、王位継承が円滑に進まないという弱点にもなり得るな。この問題はまた後で考えよう。まだ、新たなる王制の始まりのところだった」
「様々な危機や困難な状況にあっても発揮されるダビデとヨナタンの友情物語は本当にいいね。ああいう話がしっかり残っていてほっとする」
メラリの言葉に、アビエルは表情も変えずに応じた。
「友情以上の気もするけどね。ダビデは軍事的な天才でもあったが、音楽や詩の才能にも恵まれていて、たぶん一緒にいる人を魅了するような人柄だったのだろう。サウルに命を狙われるようになってからは、
ダビデとヨナタンは不変の愛を誓い合って別れる。こんな哀切極まる離別があるだろうか。それからダビデは従者を連れて様々な策を用いて逃亡し放浪する。狂人のまねをしてアキシの手から逃れたりね。六百人もの荒くれ者を率いているのだから手綱を取るのは大変だ。ただ逃げていただけではなくてケイラの住人をペリシテの掠奪から守ったりもしたのだが、何しろサウル王に命を狙われているのだからケイラの人々にとってダビデは厄介な存在にすぎない。もうダビデが身を置けるのはジフの荒野くらいしかないところまで追いつめられた。この辺りは後に王になる人とはとても思えないが、神がダビデと共にいて彼を王に立てるのだからわからないものだ」
「なあアビエル、ダビデはそうしようと思えば、サウルの命を奪う機会は幾らもあったよね?」
「ああ、そうだ。サウルがエンゲデの洞窟で用を足した時も、ハキラの山の陣で眠っていた時も、その機会はあったのに、主が油注がれた王であるサウルに決して手を掛けなかった。自分だけじゃない。ダビデは、『主は生きておられる。主が彼を撃たれるであろう』と言って部下にも手を出させなかった」
「どうしてそこまでできたのかな」
「メラリ、これは私の考えだが、この頃にはアマレク戦での勝利にまつわる一件でサウルはサムエルと断絶していたし、逃亡中のダビデに援助を与えたかどでエドム人ドエグにノブの祭司八十五人を殺させていたから、もう神とサウルの間をとりなしてくれる相手がいないことをダビデは知っていたのだろう。どこからも神の助けが来なければ滅ぶしかない」
「向こうが執拗に命を狙って追って来るのだから、私だったらチャンス到来とばかりにきっとサウルを殺してたな」
「メラリ、お前はそうだろうな。だがダビデは神の戒めに忠実な王だ。器が違う」
「悪かったな、狭量で不従順で。で、ダビデはどこまでも執拗に追ってくるサウルの手から逃れるため、究極の一手を使うんだな?」
「そう、再びアキシ王のもとに逃れるという仰天の策に出るのだ。長年の敵ともいえるペリシテの王のところに行くのだからかなりきわどい事態だった」
「これはもう禁じ手と言ってもいい。この頃はすでに、ダビデが引き
連れている一族郎党は相当な数になっていたから、アキシの目には集団亡命的な事態に映ったんじゃないかな」
「そうだろうな。うまくするとダビデを引き込んでサウルを倒し、全イスラエルを手中にできるかもしれない好機だ。だからダビデはペリシテに対してはイスラエルの敵対者として自らを見せながら、実際にはサウルのイスラエル軍に手出ししないという高等数学に取り組まなきゃならなかった。徐々に逃げ道を塞いで迫ってくるアキシに対して、イスラエルにとっても敵であった輩の討伐をしたり、どうにでも受け取れるあいまいな答えをしてみたり、あるいは忠誠を疑われて軍から外された時には、腹の底から憤激してみせるという大芝居を打って切り抜けようとした。ダビデのぎりぎりの口ぶり、すれすれの行動には本当にハラハラさせられるよ。自分がこんな難局に放り込まれたらとても身がもたない」
「アビエル、お前には無理だ。ダビデのような剛胆さがなければ一国の王になどなれるものか」
「ひどいな、でも否定はしないよ」
「その後、サウル王がギルボアの戦いで戦死するのだな?」
「サウルの息子三人がまず戦死する。ヨナタンはこの戦いで死んだ」
「だが、アビエル、ベテシャンの城壁にさらされていたサウルや息子たちの遺体を、ヤベシ・ギレアデの兵士たちが夜もすがら歩いて取戻し、丁重に葬ったのはせめてもの慰めだ。以前サウルに救われた恩を忘れていなかったのだ」
「そうだね。ずっと後に、ダビデがヨナタンの子メピボセテを呼び寄せて、恵みを施したことにも慰められた。食卓を共にし、また足が不自由であった彼のために、サウル家の家令ヂバに命じて耕作地の管理もさせた。それはそうと、サウル側の武将にはアブネルがいたから、イスラエルはまだサウル家に従う地域とダビデに従う地域が併存する状態だった」
「ダビデがヘブロンに移るのはこの頃だよね?」
「そう。ユダの人々がダビデに油注いで王とし、以後ユダとダビデ王家は緊密に結ばれることになる」
「ヘブロンには七年半だったな。両軍の戦闘は結構長引いた。ギベオンでの小競り合いが大事に発展してしまうとか、アブネルの寝返りとか、いろいろあったな」
「ああ。後に甥っ子のヨアブがダビデの意思に反して、アブネルを殺してしまうという事件が起きた。だが、やったことはやはり自分に返ってくるものだ。権力がソロモンに移ると彼はその司令官エホヤダの子ベナヤによって殺される。この辺は、メラリ、お前が書く部分だな」
「ああ、あれは主の天幕に逃げ込んで、祭壇の角をつかんだという忘れられない死に方だった。神殿ができる前の話だが。ところで、ダビデが最終的にエルサレムに居を構えたのはどうしてだっけ。エルサレムというとエブス人の地だったことがまず頭にうかぶけど」
「エルサレムの歴史ね、うーん、灯台下暗しだったな。あ、どうして今まで気づかなかったんだろう。そういえば、ヨシュアと戦ったアモリの王五人衆の一人は、エルサレムの王アドニゼデクだった。あれは結局、イスラエル部族連合がそれぞれの領地を決める時になっても、エブス人をエルサレムから追い出すことはできなかったんだっけ」
「それで思い出した。『士師記』を書いた時、ものすごく紛らわしい名前が出てきたのを。ユダとシメオンが討ち取ったアドニベゼクだ。同じ地域の王だしおそらく子孫だろうな。以前自分がしたのと同じように両手両足の親指を切り取られ、エルサレムに送られて死んだのだ
っけ。この時点でもエブス人はエルサレムに居残ったので、ベニヤミン族はエブス人と共存するしかなかった」
「私の知る限り、最初にエルサレムが巻物に登場するのはかなり大昔の、アブラハムがまだアブラムだった時代だな。サレムの王メルキゼデクがアブラムの勝利を祝ってパンとぶどう酒を持って来た話があったね」
「アビエル、お前よく覚えてるなあ」
「最後に第一の書を書かなきゃいけないからね。時間のある時資料を探して読んでるんだ」
「その頃は、イスラエルとエルサレムの住人は友好的な関係だったんだね。でもメルキゼデクって『義の王』って意味だから、祭司ザドクに繋がる家系じゃないかな。ふーむ、わかってきたぞ、アビエル、ダビデ王は二人の祭司を抱えていたけれど、ヘブロン時代からの祭司アビヤタルに対してザドクはエルサレムに入ってからの祭司だろう。やはりアロンの末裔ではなかったのだ。家系図に引け目を感じたザドクの子孫は正統なアロン系の祭司アビヤタルがソロモンによって祭司職から追われたずっと後に、その血筋を自分のものにしたのだ」
「メラリ、その話はもういい。こうして丹念にたどれば真実の痕跡はちゃんと残っているのだから。エルサレムの話だったな。何といっても高台にある自然の要塞のような町だから、イスラエルも他の国も完全に攻略できなかった場所だった。それに、サウル王の勢力地域とダビデの勢力地域の境界にあったから、両方の民をまとめて国を統一するにはうってつけの場所だった」
「都がエルサレムなのは当たり前と思っていたから気にも留めなかったけど、この辺りがダビデの慧眼なんだな」
「ダビデ王は長引く逃亡生活の中で驚くほど度量の広い人になっていたから、エブス人やその他の古来からの住民をごく緩やかに支配したのだろう。祭司としてアビヤタルとザドクの両方を抱え込んだように、軍司令官は甥で古くから付き従ってきたヨアブだけでなく、エルサレムに都をおいてからの軍人ベナヤたちも皆抱え込んだ。ベナヤが後に天幕の中でヨアブを殺してソロモンの軍司令官になったのは、さっき話した通りだ」
「バテシバの夫ウリヤがヘテ人だったのはよく知られているけど、ダビデの勇士の中には外国人が多かったね」
「だってダビデの祖母のルツは外国人だもの、抵抗感はなかっただろう。逃亡生活で先行きがわからなかったから、ダビデは両親を祖母ルツの出身地、モアブの王に預けている」
「ルツの話は授業でアヒメレク様から聞いた記憶がある。夫の死後も姑ナオミのそばを離れず、『あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です』と言ってベツレヘムへとつき従ってきたモアブの女性だった」
「異教徒や外国人について、授業ではもっと仰天する話を聞いたな。雑談って感じだったけど、あまりに妙なので忘れられなかったのはヨナという預言者の話だ」
「アッシリアのニネベに遣わされるのが嫌で逃げたら、嵐の海に投げ出され大きな魚に飲み込まれたって話だったよね、しかも悔い改めを説いたらほんとに皆悔い改めたので神様が神罰を降すのをやめたという、あり得ない話だった。アッシリア人が悔い改めて救われるなんてとんでもないって、アヒメレク様に食ってかかったのを覚えている」
「そうだったな、メラリ。なぜアヒメレク翁はこんな話を聞かせるのだろうって、私も思った。だが考えないといけないな。あの方が何か
する時は必ずそうする訳があるのだから」
「話を戻してもらっていいかい。やがて即位したダビデ王はかなり慎重に神の箱をエルサレムに運び入れるよね?」
「ただ喜びのあまりエポデをつけて踊ってしまい、妻のミカルに軽蔑される。私にはダビデのうれしい気持ちはよくわかるよ。中立的な場所に都を定め、その中心に神をおいて王国を始めようとしたダビデは、それはそれはうれしかったのだと思う」
「ああ、その喜びをミカルも共有できればよかったのにね」
「人生は思うようにはいかないものだな、メラリ。ともかく逃亡生活を経て経験を積んで王となったダビデはもはや無垢な若者ではない。ミカルとの家庭生活はうまくいかなかったし、バテシバとのことで神の前に姦通と間接的殺人という大罪を犯す。エリ同様、子供の教育もうまくいかなかった。陰鬱な事件も起きた。王位継承をめぐっては息子アブサロムに命を狙われ、それでも彼が討ち取られたと聞いて、『お前に代わって私が死ねばよかった』と嘆く。自分を取り巻く人間的な状況という意味では憐れとも見えるが、己の罪を悔い改めて神の赦しを求める点では素直な祈りの人だったから、死ぬまで神の恵みを受け
たのだろう」
「神の御心を問い、神に依り頼むダビデの姿勢には、私も何度も胸をうたれたよ」
「資料を探して読んでいる時に、心に残った話があった。後に王国の体制が整い始めてダビデはダンからベエルシバまで、すなわち全土の民の数をヨアブに数えさせた時のこと。後にダビデはそのことで心に責めを感じてこの罪の裁きを神に求めるのだが、神は預言者を通して三つの選択肢を与えられる。『国に三年の飢饉があることか、敵に追われて敵から三か月逃げることか、国に三日の疫病を送ることか』と。ダビデは悩んだ末、『わたしを人の手には陥らせないでください』と答える。主のあわれみは大きいから主の手にかかった方がまだ耐えられるということだ。ダビデはこれまでの体験から、ほとほと人の手にかかることの辛さ加減を知っていたのだ」
「本当に大変な人生だったね。ダビデの人生は人の一生の縮図を見るようだ。でも、彼には自分のために何でもしてくれる腹心の家臣もいた」
「ああ、レパイムの谷に陣を敷いたペリシテと戦うため、アドラムの
洞穴にいた時のことだな。あれは妙に心にしみる話だね。ベツレヘムの門の傍らにある井戸の水を切望したダビデのために、三人の勇士が命も顧みずペリシテの陣を突っ切ってその水を汲んできたのだから」
「結局、ダビデはその水を飲まずに神に捧げたのだ。この話が残ったのは本当によかった。そう思わないか、アビエル?」
「うん、なんだか今の話で詩を思い出したな。ダビデの詩って言ってなかったか? メラリ、覚えてるかい?」
「忘れるものか。アヒメレク様が朗々と吟唱された。『主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑のまきばに伏させ、憩いのみぎわに伴われる。主はわたしの魂を生き返らせ、御名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです』とね。まだ続きがあったけど」
「だが、悲壮な訴えで始まる詩もあったはずだ。『わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。わが神よ、わたしが昼呼ばわっても、あなたは答えられず、夜呼ばわっても平安を得
ません』、だったか。あの頃はまったく実感がわかなかったが、ダビデの人生にはこのようなことが何度もあったのだ」
「アビエルが一番好きな詩はどれだい?」
「長いから、最後のところだけ言うね。『わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです』という詩かな」
「長いから? 前の方を覚えてないんじゃないのか?」
「お前はどうなんだ。何か覚えているか?」
「ええと、出だしはこんなふうだった。『主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです』、だったかな」
「なぜその詩が好きなの?」
「この部分が好きってわけじゃない。でも、これは危険な言葉だよ。『彼には神の助けがない』と他人が言っているうちはいい。だが、『お前に神の助けなどあるものか』と人が自分に言う時は、危険極まりない。それはその人を完全に崩壊させる言葉だから」
「好きな詩も教えてくれ」
「今の詩の続きを覚えてないか? こう続くんだ。『わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。わたしは伏して眠り、また目をさます。主がわたしを支えられるからだ』とね」
「メラリも安眠に関する詩なのか。安らかに眠ることができるというのは、なんと幸いなことだろうか」
「自分を虫けらとまで思ったダビデが、『わたしの生きている限りは、必ず恵みと慈しみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう』という心境にまで達するには、想像を絶する人生の闘いがあったのだ」
メラリの言葉で思いついたように、アビエルが口を開いた。
「なあメラリ。ダビデとバテシバとの間に生まれた最初の子が病気で七日目に死んだとき、それまでは断食をし、地に伏して泣きながら神に嘆願していたダビデが、子供の死を知った途端、まるで吹っ切れたように身を洗い、着替えて食事する場面があるだろう? 私はその姿に唖然としてこれまでまったく解せなかったのだが、なんだか今はわ
かる気がする。あれは、すべてを神にゆだねて祈った結果が示されて、それを受け入れたのだということだったのだ。神の領域のことは神にゆだねる、それだけのことだ。神の箱を運ぶ牛がつまずいた時、箱が投げ出されるのを防ごうとして、死んだウザの話も今ならわかる。定められた仕方で運ばれたものではなかったし、なにより、本来神の御手の内にあることを人間的な力でなんとかしようとしたことの帰結だったのだということが」
「一生のあいだ諸々の過ちを犯しながら、それでも神に赦しを請いつつ、その恵みの内にとどまって生きるということがどれほど困難なことか。ダビデは神の手の中で力いっぱい生きたのだな。あやかりたいものだ」
「ダビデの話は尽きないが、メラリ、少し急がないと。次、『列王記』の構成の詳細を聞かせてくれないか」



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 第7章へ続く

















サム上1:9〜28

サム上3:1〜14
サム上2:18〜19













サム上2:12〜17、2:22〜25

サム上2:31〜34







サム上9:3〜10






サム上4章













サム上4:21







サム上14:3
サム下8:17
歴代上6:8
(新共同訳5:34)






サム上5章〜6章





サム上7:16




サム上7:1〜2







サム上13:19〜22











サム上10:1
サム上16:13








サム上15:22







サム上8:1〜3



サム上8:10〜22



サム記上9:11〜24




サム上10:17〜24












サム上11:14〜15












列王下6:1〜7





サム上11章





士師記19:14〜21
士師記21:8〜15







サム上13:8〜9














サム上10:8





















サム上13:14





サム上13:13






サム上18:10


サム上18:7











































サム上14:1〜23


















































































サム上14:24〜46



















列王上12:2〜4


列王下17:4〜6





















サム上20:41


サム上21:12〜15


サム上23:1〜14











サム上24:3〜4
サム上26:6〜12]






サム上15章
サム上22:11〜19
















サム上27:1〜7










サム上27:8〜28:2





サム上29:6〜11













サム上31章






サム下9章









サム下2:1〜11


サム下2:12〜17

サム下3:6〜12


サム下3:22〜27


列王上2:28〜34











ヨシュア10:3〜5


ヨシュア15:63


士師記1:3〜7



士師記1:21



創世記14:17〜20













サム下8:16〜18





























サム下11:3

ルツ記1:4

サム上22:3〜4


ルツ記1:16









ヨナ書1章
ヨナ書3章










サム下6:9〜23













サム下11章


サム下13章
サム下15:13〜18:33












サム下24:1〜14
















サム下23:13〜17












詩編23編








詩編22編









詩編4編






詩編3編























詩編22:6
詩編23:6





サム下12:15〜23



















































































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