第8章


 王国の書は書き上がった。アビエルは父が捕囚された年をとうに越えていた。最後のというか、最初の書を書くにあたって老アヒメレクのお考えを聞かなければならない。彼の体は目に見えて弱ってきていた。

 その朝、杖をつき、巻物を抱えてアヒメレクは姿を現した。
「バビロン王エビルメロダク即位の恩赦により、エホヤキンが獄から解放されたという知らせが入ったぞ。王と食事を共にするほどの待遇とのこと、かつてエレミヤが言ったように捕囚の終わる日がいつか来るかも知れんな」
「本当なのですね」
アビエルとメラリはしばし感傷にひたった。少ししてアビエルが言った。
「おじいさま、それでは本題に入ります。第一の書の構成について考えてみました。この書はまず世界の始まりから書き始めます。おじいさまは何かお考えがあるとのことでしたね?」
「まずお前たちの話を聞こう。これまで通りの手法で書くのじゃろう?」
アビエルは最後の、そして最初の書の構想を話し出した。
「さしつかえなければ、次のように書きたいと思います。まずこの世界が造られ、それからアダムが、そしてそのあばら骨からエバが造られ、エデンの園で蛇の誘惑に屈し罪を知ったことを書きます。それから人類最初の子カインが兄弟殺しを犯すこと、この世に悪が満ちて神が大洪水を起こされるがノアは救われること、バベルの塔の話も書いて…、あとは我々の偉大な父祖、アブラムあらためアブラハムの話につながります。アブラハムは『あなたを祝福の基とする』という神の声に従ってハランを出で立ち、カナンに移り住みます。シケムに着いて、モレの樫の木のもとで、主から『あなたの子孫にこの地を与える』と言われ、そこに祭壇を築きます。それからベテルとアイの間に移って天幕を張り祭壇を築きますが、飢饉のためエジプトに下り寄留します。その後、再びカナンのベテル、ヘブロンへとめまぐるしい旅の人生を送りますが、神への信仰に堅く立っていたので老年になって息子イサクを与えられます。この話は、おじいさま、耳にタコができるほ
ど聞かされてきましたね」
メラリと二人、小さな食卓で、アヒメレクから父祖の物語を聞かされた幼い日の記憶がアビエルの脳裏をよぎった。ああ、あれからどれだけの月日が巡ったことだろう。話しながら、湧き上がる多幸感にアビエルは包まれていた。
「イサクの子ヤコブは狡猾で抜け目ない人間ですが、ヤボクの渡しにおいて一晩中、神の使いと組み打ちして腿の関節をはずされても、祝福をいただくまでは相手を離さないという恐るべき執念を見せました。自らの救いについて彼は必死であり真剣そのものでした。昇る朝日の中で足を引きずって歩く彼の姿は強烈なシルエットを刻みました。これこそ私たちの本来の姿なのです。この日以来、ヤコブはイスラエルという名を与えられたのですから。どれほど欠けの多い卑小な人間でも、神と向き合う時には必死であるべきなのです」
アビエルの様子を眩しそうに見ていたメラリが、あとの言葉を引き取った。
「ヤコブには必死になる理由がありました。彼は兄エサウから長子の特権を奪ったばかりでなく、父イサクをだまして兄の祝福までも奪っ
たのですから。ですが、彼はそのことを悔いていました。そして神の使いと組み打ちした後、軍勢を引き連れてやってくるエサウの前に七たび地にひれ伏し、兄に和解を求めました。兄と和解するために、ヤコブはどうしても神から罪を赦していただかなくてはならなかったのです」
そうなのだ、我々イスラエルはどうしても神の赦しを必要としているのだ。神に罪を赦していただくことなしには、我々は決して立ち上がることができない。アビエルの頭の中で、これまで編纂してきた幾つもの書の登場人物が一挙にぐるぐると駆け巡った。みな自らを頼み、心のままに計りごとを実行に移してきたではないか。だが、どうだ。実現するのは神の御旨だけなのだ。アビエルは再び言葉を継いだ。
「この書の最後のところは、十二部族のもととなるヤコブの子供たちのうち、末っ子のヨセフが兄たちの反感を買ってエジプトに売られる物語です。そこで大臣になり、飢饉の時エジプトに食料を求めてやってきた兄弟たちと再会し、それから父ヤコブの葬りがあり…、ついにはヨセフもこの世を去る。やがて数が増えたイスラエルは奴隷の扱いから逃れるため、モーセに率いられてエジプトを出る『出エジプト記』
に続く…と」
 しばらく間があって、アヒメレクが尋ねた。
「お前たちはこれまで史書の編纂に携わってきて、今なにか思うところがあるか」
二人は顔を見合わせた。アビエルが先に話し出した。
「この最初の書の資料を読んでいて特に思ったのは、人は本当に罪と隣り合わせに、いや殆ど罪の中に生きている存在だということです。最初の人間からしてそうですし、その子も同様です。人がその心に思い図るのはいつも悪い事ばかりであるのを神は見て、ノアの時代に大洪水を起こすのです。地の上に人を造ったのを悔いるとまで仰せになります。ただ、この大洪水も効果がなかったのです。そして神は、『もう二度とすべての生き物を滅ぼすことはしない』と約束されます。その理由は、『人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである』と。これは、聞くだけでも、絶望的な言葉です。この書を書くにあたって資料をたくさん読みましたが、実際、ノアの後も、人間の悪事が止むことはありません。太古の時代であるだけに、その様態が素朴で赤裸々に記されています。子孫を得るためとはいえ、父を酔わせて床を共にしたり、遊女に姿を変えて舅と関係したりということが書かれたものもありました。私だったらこんな形で名前が残るのなら死んでも死にきれないような罪悪があからさまにされています。個人の事だけではありません。恋情を抑えられずヤコブの娘を凌辱した男の住む町を、その兄たちが復讐に燃えて血の海にした伝承もありました。割礼絡みの話で、このような蛮行はあってはならないことです。こういう不名誉なことの数々を皆書くべきなのでしょうか? そこまで書かないといけないのでしょうか?」
アヒメレクは問いをそのままにして言った。
「メラリはどうだ?」
「私もこの最初の書を書くにあたって一番感じたのは罪の問題ですが、ソドムをめぐる神とアブラハムの対話が心に残っています。人の罪に染まった町ソドムを神が滅ぼそうとした時、アブラハムが示したとりなしです。アブラハムは『もし五十人の正しい人がいても町を滅ぼすのですか』と問うて、『正しい人が五十人いたら町を滅ぼさない』という答えを得ます。その後さらに、アブラハムの必死の食い下がりでこの人数は十人まで下がります。神がアブラハムとの度重なるやり
取りの中で、アブラハムの提案を常に受け入れ十人まで譲歩したということは、『正しい者を悪い者とともに滅ぼさないでほしい。正義を行う方がそんなことをなさるはずがない』というアブラハムの主張を認めたということでしょう。人はとかく人数の多寡で判断し町の殆どが悪人ならば滅ぼされても仕方がないと考えがちですが、正しい者のゆえに悪い者の多い町を赦してほしいというアブラハムの主張を、神がよしとしたというのは大きな希望です」
それを聞いてアヒメレクが言った。
「神の声に聴き従う者が一人でもいれば、それはこの世界の希望になる。そのような人はたとえ倒れることがあっても、また立てられる。神が立てるのだから、すべてを委ねて進み行けばよいのじゃ。先ほどのアビエルの問いに答えよう。お前は『士師記』も残虐だと言っておったからの。確かに我々の歩みには、野蛮なこと、うなだれてしまうような不名誉なことがたくさんあった。それどころか、『あなたはなんということをしたのか』と、神を嘆かせる歴史の連続だったと言ってよい。しかし長い人生の中で、そのような恥ずべきことをしたことのない人がおるじゃろうかな? そのような歴史をまったく持
たない国や民があるじゃろうかの? もし、お前たちの書いてきた書が人に向けて書かれたものならば、残酷だ、恥だと言うこともできよう。また、もう少し見栄えのよい書にすることもできたであろう。だが、これらの書は、なるほど人が書いたものには違いないが、第一義的に人が読むことを念頭において書かれたものではない。これは神に向けて書かれたものなのだ。神の前では取り繕うことに何の意味もない。この書は人の言葉で書かれ、神の言葉として読まれる書なのじゃ」
静かな間があって、アビエルが尋ねた。
「おじいさま、神の言葉を語るのは預言者です。預言者というのは神から預かった言葉を語る以外に、どのような属性があるのですか?」
「預言者は神の言葉を取り次ぐ者、それ以上でもそれ以下でもない。預言者の口に言葉を授けるのは他ならぬ神なのだから。広い意味ではアブラハムもモーセも、まぎれもなく預言者じゃ。彼らに率いられて、ただ彼らによって語られる神の声に従って、我らは歩んできたのじゃ。人の目に映るエリヤは毛衣を着て腰には革の帯という出で立ちだったし、エリシャは十二くびきの牛に引かせて畑を耕せるほど裕福な家の出だった。しかし、エリシャはエリヤから外套をかけられて彼に従い預言者となった。やがてエリヤの死に際しては、二倍の分け前を相続する長子たる自覚を持って、彼から二つ分の霊を受け継ぐことを願う者となった。預言者であるということはどういうことかをエレミヤは何と語っていたか? 『主の名を口にすまい、もうその名によって語るまいと思っても、主の言葉は我が身の中で火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして私は疲れ果てました。私の負けです』とな。人は聞きたいことしか聞こうとしないものじゃ。まことの言葉と向き合える者など、そうはおらぬからの。だが、預言者は神の言葉を変えることはできぬのじゃ」
「おじいさまは先ほど、エレミヤの預言の通り、捕囚が終わる日が来るかもしれないとおっしゃいました。それが私たちに与えられる神の救いなのでしょうか?」
老アヒメレクは答えた。
「捕囚の民の帰還、神殿の再建…、それも救いではあろう。だがわしには、イスラエル民族の救い以上のものがあると思えてきたのじゃ」
「おじいさま、私とメラリも同じことを考えていたのです」
「捕囚の地でエゼキエルは枯れた骨の幻を語ったと言う。夥しい数の
枯れた骨が神の言葉を聞いて生き返ったというのじゃ。谷を埋め尽くしていた枯れた骨が、神の息を吹き入れられて自分の足で立ったと。エゼキエルは何か全く新しいことを語っておるのじゃ。イザヤの弟子たちもまた、湧き上がる喜びの声を告げている。『新しき歌を主に向かって歌え。地の果から主をほめたたえよ』とな。ネブカドネザルの死より此の方、バビロニア帝国のほころびが見え始めたのは紛れもない事実、メディアの隆盛は著しいとの報がある。その中でも小国ながらペルシャのキュロスは破竹の勢いとか。確かに明るい兆しはあるが、この年になってわしもぬか喜びはしたくないとも思う。だが、彼らのあの希望に満ちた叫びはなんなのだ。彼らは、『主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼をはって上る。走れども疲れず、歩めども倦むことなし』と語っていると言うではないか」
「アヒメレク様、そればかりではありません」
メラリが口を挟んだ。
「彼らは新しいしるしを見ているのです。驚くべきメシアの出現の預言です」
「このうえ、油注がれる新しい王が出現すると言うのか?」
「それが、そのメシアは思いもかけないお姿なのです。主の前に育った若枝たるその人は、人々に見捨てられ、みじめで憐れそのもののご様子なのです。しかしそのお方が、神に対する私たちの背きの罪を自ら負われると、彼らは言うのです。私には何のことかわかりません。彼ら自身、『私たちの聞いたことを、誰が信じえようか』と言っているのですから。でもアヒメレク様、あまりに不思議な話ですから、このことが妙に胸に引っ掛かって消えないのです」
アヒメレクは目をつぶってしばらく押し黙っていた。
「わしが知らない話を、お前たちから聞くのはこれが初めてじゃな」
アビエルは答えた。
「おじいさま、私たちも長いこと、学びの旅を続けてきましたゆえ」
アヒメレクは頷きながらその言葉を聞いていた。感に堪えぬという面持ちだった。それから口を開いた。
「望むと望まざるとにかかわらず、神の言葉を語るという宿命を負った預言者たちが、いま次々と新しい預言をし始めている。何かがあると思わねばなるまい。イザヤの弟子たちからほかには何か聞かなかったか?」
アビエルが答えた。
「私の胸にずんと響いたのはこの言葉です。『ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、わたしに聞け。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す』と」
アヒメレクがゆっくり口を開いた。
「わしはその預言に全幅の同意を与えよう」
それから、メラリはアビエルを見た。アビエルには彼が話そうとしていることが分かった。それは遠い昔に課され、ずっと出しそびれていた宿題だった。アビエルが頷くと、メラリが話し出した。
「アヒメレク様、私たちはどうしてもお話ししておかねばならないことがあります。火に包まれたエルサレム神殿でアヒメレク様に命を救われた日のことです。私たちは神の箱の中を見たのです」
一瞬間があってアヒメレクは応じた。
「何もなかったじゃろう」
メラリとアビエルは絶句した。
「ご、ご存じだったのですか?」
アヒメレクはつぶやいた。
「やはりそうか」
それから静かに言った。
「箱の中身がいつから空なのか、わしも知らん。だが、中身がないのはもはやそれが必要ないということじゃ。エレミヤも言っていたではないか。『その日には、人々はもはや「主の契約の箱」と言わず、これを思い出さず、これを覚えず、これを尋ねず、これを作らない』とな」
メラリとアビエルは、長い間の胸のつかえが下りるのを感じた。
「アヒメレク様、書の構成に戻ってよろしいでしょうか。先に述べたような展開で書いてよろしいのでしょうか? 何かお考えが…?」
「このままだと最初の書の書き出しは、『主なる神が地と天とを造られた時』になりそうじゃな。実は総督府を通じてわしに届いた書があってな、息子アビヤタルがバビロンで書いたものだと言う。向こうへ捕囚された者も、我々イスラエルの民族史を一から書き始めておったのじゃな」
「見せてください」
アビエルとメラリは争うようにして、その書を覗き込んだ。読み終えて、二人は静かに頷き合った。一日目から六日目まで行われた天地創造の次第が、手に取るように詳しく書いてあった。そしてすべての業を終えて神は七日目に休まれ、その日を祝福されたのだ。これが父の書いた天地創造なのだと、アビエルはこみ上げるものを押えきれなかった。メラリが言った。
「おお、この書では神がご自分にかたどって人を造られた時、男と女を同時に創造されたのですね。書き出しもすばらしい」
「おじいさま、ではこれを冒頭にしてこの書を始めます。これですとこの書は『創世記』ということになりますね。メラリ、この書は一緒に書こう。そして、あとのことは後の世代の人に任せよう」
アビエルは第一巻の最初の文をおもむろに書き記した。

はじめに神は天と地とを創造された。

「おじいさま、これでよろしいですね?」

メラリはアビエルを見て、悲しげに微笑んでゆっくり首を振った。

「お休みになられたようだ」

 

(了)

 

 

 

 聖書に出てくる用語の日本語訳は、概ね日本聖書協会刊行による口語訳聖書に拠っています。

 



                               ©Copyright



















列王下25:27〜30




















創世記1章〜3章
創世記4:1〜16
創世記6章〜9章
創世記11:1〜9



創世記12章〜13章







創世記17:1〜18:15

創世記21:1〜7









創世記32:22〜31














創世記25:29〜34

創世記27章


創世記33章













創世記37章


創世記42章〜50章



















創世記6:5〜7


創世記8:21







創世記19:30〜36
創世記38:11〜26



創世記34章












創世記18:16〜33




























創世記3:13



























列王下1:8
列王上19:19〜21


列王下2:9




エレミヤ20:9


















エゼキエル37:1〜10





イザヤ42:10





イザヤ45:1


イザヤ40:31












イザヤ53:2〜12



イザヤ53:1




















イザヤ46:3〜4
































エレミヤ3:16








創世記2:4後半

















創世記1:27








創世記1:1







































>




戻る





inserted by FC2 system